神無月って、なんで「神がいない月」って書くの?そう疑問に思ったことはありませんか?
そして「水無月」なのに雨が多いのはなぜ?「睦月」ってなんで睦”の?
日本の旧暦には、現代人が思わず「へぇ!」と言ってしまう深い意味がたくさん詰まっています。
今回はその中でも特に不思議に思われがちな3つの月名に焦点を当て、文化や歴史、神話まで紹介します。
睦月(むつき)人と人が睦まじくなる月
睦月は、旧暦の1月にあたります。
最も有力な説は「睦び月(むつびづき)」、つまり家族や親戚が仲睦まじく過ごす月という意味です。
新年には親族が集まり、お節料理を囲み、年賀の挨拶を交わし、共に時間を過ごす、こうした風習が、まさに睦び合うという言葉の情景そのものです。
古来の日本では、年始は家族との関係を見つめ直す神聖な時間でした。
睦月という言葉には、単に月の名前としてだけでなく、人と人の絆の大切さを再確認する月という精神的な意味合いも込められていたのです。
一方で、「元月(がんげつ)」や「初春月(はつはるづき)」といった別名も存在し、どれも共通して「新しい始まり」を象徴しています。
暦の上では、この時期から春とされていたため、冬の寒さの中にも希望や生命の気配を感じさせる穏やかで温かみのある月名なのです。
水無月(みなづき)水が無いんじゃない「水の月」
水無月は、旧暦の6月にあたります。
多くの人が最初にこの漢字を見て感じるのが、梅雨なのに水が無い月?矛盾してない?という疑問でしょう。
しかしここに、古典文法の奥深さが隠されています。
この「無」は、「〜の」と訳す連体助詞の「な」と捉えるのが一般的な解釈、つまり「水無月」は水の月という意味であり、田んぼに水を引き入れる大切な時期を表しているのです。
梅雨が終わり、晴れ間の増える旧暦6月は、まさに稲作の仕上げに入る重要なタイミング、水の管理が豊作に直結するこの時期に、水を尊ぶ気持ちを込めて「水無月」と名付けた先人の感性には、自然と共に生きてきた日本人の知恵が光ります。
さらに、6月30日に行われる「夏越の祓(なごしのはらえ)」という神事も、この時期を象徴する文化のひとつです。
半年間の穢れを祓い、残り半年の無病息災を願う行事で、このときに食べる和菓子「水無月」には、ういろうの上に小豆が乗っており、厄除けの意味が込められているのです。
神無月(かんなづき)全国から神様が出雲に集まる神のいない月
神無月は、旧暦の10月にあたります。
神が無い月と書くため、なんだか不吉に思われがちですが、実際には「神様が出雲へ出かけていて、地元にはいない月」というのが由来とされています。
全国の八百万の神々が出雲大社(島根県)に集まり、「神議(かみはかり)」と呼ばれる会議を行うという伝承があります。
この会議では、人と人の縁、来年の運命、天候、豊作など、あらゆる世の中の巡りを話し合うとされ、それゆえに出雲だけは「神在月(かみありづき)」と呼ばれています。
つまり神様たちは、いなくなるのではなく、出張しているというわけです。
これは、神道的な世界観と地理的な信仰の融合が生み出した日本独特の考え方であり、神話の国・出雲が持つ宗教的な影響力の強さを今に伝えています。
この神在月の間、出雲大社では実際に「神在祭(かみありさい)」という祭礼が行われ、全国から神様を迎える儀式が執り行われます。
また、出雲が「縁結びの聖地」と呼ばれているのも、この「神様たちが縁を結びに来る」という伝説に深く由来しているのです。
まとめ
「睦月」には人との絆、「水無月」には自然との共存、「神無月」には神話と信仰という、それぞれ異なる意味が込められていることがわかります。
旧暦の月名は、ただの呼び名ではありません。
日本人が自然と暮らしに寄り添って生きてきた、その記憶を言葉の形で残しているのです。
日々忙しく過ぎていく現代だからこそ、こうした言葉にふと立ち止まり、季節の意味を考えてみる、カレンダーの数字だけでは味わえない、心に響く季節の気配を和風月名は今も私たちに教えてくれているのかもしれませんね。
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