下総が上、上総が下?地図を見て戸惑ったことはありませんか?
千葉県にある「下総(しもうさ)」と「上総(かずさ)」の旧国名、名前からは南北の位置関係が連想されますが、実際の地図では逆で上総が南側、下総が北側にあるのです。
実はこの上下逆には、現代では考えにくいある歴史的事情が隠されています。
今回は、地理の常識を覆すその理由を紹介します。
なぜ上総が下に、下総が上にあるのか?

地図を開いてみると、「下総国」は現在の千葉県北西部〜茨城県南部にかけて、「上総国」は千葉県の中南部に位置しています。
つまり、地図上では下総のほうが上(北)、上総のほうが下(南)にあるのです。
これは直感的にはどう見てもおかしな話ですよね。
しかし、こうした命名には京都からの距離が基準となっているという、歴史的な背景があります。
つまり、かつての都である京都に対して、近いほうが「上」、遠いほうが「下」と呼ばれていたのです。
ところが、ここで疑問が生まれます。
京都から東に向かったら、先に通るのは下総で、そのあとが上総じゃない?
つまり、どう見ても下総のほうが京都に近いように見えるというわけです。
それもそのはず、現在の視点=陸路(鉄道や車)の感覚で考えると、確かにその順序になります。
しかし、このズレこそがポイントなのです。
古代の移動手段は海路だったという事実
この混乱を解くカギは、当時の人々がどうやって移動していたか?という視点です。
奈良時代から平安時代、さらには鎌倉時代にかけて日本の主要な長距離移動手段は陸路ではなく海路でした。
当時の朝廷の役人や使節は、京都(近畿地方)から瀬戸内海を東へ抜け、太平洋に出て房総半島の南側(=上総)に先に到達していました。
つまり、海から入るなら南部が入口であり、そこから北上するルートで内陸や北部(=下総)へ向かう流れだったのです。
このルートに基づいて考えれば、上総のほうが京都に近い=上、下総のほうが“京都から遠い=下という解釈は、当時の交通インフラに照らせばむしろ自然だったのです。
さらに補足すると、こうした命名法は関東以外でも存在します。
たとえば武蔵国では、上野(こうずけ)と下野(しもつけ)、伊勢国でも伊賀、伊勢、志摩など、中央からの距離に応じた上下の関係が各地に根付いています。
つまり、我々がいま感じる上下の違和感は、現代的な地図感覚と古代の実際の移動手段・都からの視点とのギャップによって生まれたものに過ぎません。
京都の右京区と左京区も地図と逆なのはなぜ?
千葉の下総・上総と並んで、もう一つ混乱しがちな逆配置の例が、京都市の右京区と左京区です。
地図で見ると、左京区が右側(東側)にあり、右京区が左側(西側)にあるという配置になっています。
これもまた、現代の感覚では逆に感じられる例ですよね。
この理由は、天皇の視点を基準にしているからです。
平安京は、古代中国・長安の都を模して建設され、天皇が南を向いて玉座に座る(南面)という儀式的・象徴的な構図を採用していました。
その天皇の視点から見て、
- 右手(西側)=右京
- 左手(東側)=左京
という命名がなされました。
つまり、北が上という地図上の方位を基準にしていないため、現代の地図とは左右が逆になるという現象が起きているのです。
この天皇視点の命名ルールは、政治的・宗教的にも重要で、右大臣(西側)左大臣(東側)などの官職名にも反映されており、単なる地理ではなく制度そのものに組み込まれた思想的な区分でした。
まとめ
千葉県にある下総と上総という旧国名が、地図上では上下逆に見えるのは、当時の人々が京都からの距離を海路基準で考えていたからです。
現代の地図感覚だけでは読み解けない歴史と思想のロジックが背景にあります。
地名や区分の意味を知ることで、私たちが見ている地図の裏にある深い時代の流れを感じることができるのではないでしょうか。
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