血の伯爵夫人という異名を持つエリザベート・バートリ、16世紀ハンガリーで実在したこの貴族女性は、なんと600人以上の若い女性を拷問し、生き血を浴びていたと語り継がれています。
吸血鬼伝説のルーツとも言われる彼女の名は、今なお世界中で語られ続けていますが、近年では陰謀により罪を着せられた可能性も指摘されています。
果たして彼女は本当に悪魔的殺人鬼だったのか、それとも時代に消された悲劇の女性だったのか…今回はそんな謎に満ちたエリザベート・バートリの生涯に迫ります。
ハンガリー王国の名家に生まれた少女

エリザベート・バートリ(ハンガリー語表記ではエルジェーベト・バートリ)は1560年、現在のルーマニア・トランシルバニア地方にあたる領地に生まれました。
彼女はバートリ家という名門中の名門に生まれ、当時のハンガリー王国でもトップクラスの財産と権力を持っていた一族の一員でした。
裕福な家庭に育った彼女でしたが、その幼少期は決して平穏ではありません。
史料によれば、4歳頃からてんかんに似た症状や激しい片頭痛、情緒不安定などの兆候があったとされます。
また、当時のハンガリーでは公開処刑や使用人への暴力が日常的に行われており、幼い彼女の目に焼きついた凄惨な光景が、のちの人格形成に影響を与えた可能性も否定できません。
13歳でナーダシュディ・フェレンツ伯爵と婚約し15歳で結婚、夫フェレンツは冷酷な軍人であり、戦地で学んだ拷問技術を妻に教えたと伝えられています。
2人はシャールバール城に移り住み、豪華な生活を送る一方で、そこで使用人への拷問や異常な儀式の数々が始まったとされます。
処女の血で若さを保つ伝説の誕生と拷問の実態
バートリの名が「血の伯爵夫人」として世界に知られるようになったのは、彼女が若い娘たちの生き血を浴びていたという恐ろしい伝承が残っているからです。
ある日、女中を叩いたときの返り血が顔にかかり、ふと「肌がきれいになった」と感じたことをきっかけに、バートリは処女の血は若さを保つと信じるようになったというのが伝説の始まりです。
それ以降、若く美しい娘たちを城に招き入れ、血を抜き、皮膚に塗ったり血の風呂に浸かったりしたと語り継がれています。
さらに彼女の快楽的な残虐性はエスカレートし、娘たちの肉体を切り裂いて楽しんだり、盲目にする拷問を施したとも言われています。
一説によれば650人の犠牲者を彼女自身が記録していたという日記も存在したとされ、この記録が伝説にリアリティを与える要因にもなっています。
こうした伝承は後世の吸血鬼文学やホラー映画に多大な影響を与え、「バートリ=吸血鬼」のイメージが定着していきました。
英語の「bloodbath(血の風呂、大量殺戮)」という言葉の語源になったという説さえあるほどです。
陰謀か、真実か? その後の謎
1604年に夫フェレンツが亡くなると、エリザベートは自らの支配力を強め、スロバキア西部のチェイテ城に移住します。
ここでさらに多くの娘たちが失踪し、地域住民の間で「バートリに仕えると戻ってこない」という噂が広がりました。
そして1610年、ついに一人の少女がチェイテ城から脱出し、王家に訴えたことが転機となりハンガリー王家が調査団を派遣、城では複数の遺体や拷問器具が見つかり、数名の使用人が証言したことで、彼女はついに逮捕されます。
しかし、バートリは王侯貴族であったため、死刑にはならず自宅であるチェイテ城の一室に幽閉されることになります。
1614年、4年の幽閉生活の末、彼女はその部屋で息を引き取りました。
ここで注目したいのは、彼女の犯罪には明確な証拠が少ないという点です。
当時の証言は拷問によって得られたものも多く、政敵による陰謀だったという説も存在します。
バートリが莫大な財産と権力を持っていたため、彼女を排除したかった周囲の貴族たちが仕組んだ策略という見方も、近年の研究では浮上しています。
まとめ
エリザベート・バートリの物語は、残虐で非道な伝説と政治的陰謀の犠牲者という相反する2つの顔を持っています。
確かに彼女が数々の女性を拷問・殺害したという証言は残っていますが、その多くが信ぴょう性に乏しく伝説化されすぎている感も否めません。
とはいえ、「処女の血で若返りを図った貴族」「吸血鬼のモデルとなった女」としてのバートリ像は、時代を超えて多くの人々を惹きつけてやみません。
事実であれ虚構であれ、その残虐性と神秘性は、今後も語り継がれることでしょう。
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