「絶景かな、絶景かな」で知られる大盗賊・石川五右衛門。
彼は本当に庶民の味方だったのか?それともただの無法者だったのか?
権力者の屋敷を狙い、貧しい人々に財を分け与えたとされる彼の姿は、今でも日本のロビン・フッドとして語り継がれています。
しかし、その生涯の多くは謎に包まれ、史実と創作が入り混じっているのも事実です。
今回は石川五右衛門の実像に迫ってみたいと思います。
実在した大盗賊・石川五右衛門

石川五右衛門(いしかわ ごえもん)は、安土桃山時代に実在したとされる盗賊です。
現在では歌舞伎や講談で有名な人物ですが、実際に1594年(文禄3年)に京都・三条河原で「釜茹での刑」に処されたことは史実として確認されています。
当時の公家の日記『鹿苑日録』や『言経卿記』には、複数の盗賊が処刑された記録が残されており、その中に五右衛門が含まれていたとされています。
さらにスペイン商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』でも、石川五右衛門ら盗賊の処刑が記述されており、実在を裏付ける証拠となっています。
とはいえ、彼の出自や幼少期についての記録はほとんど残っていません。
「伊賀や甲賀で忍術を学んだ」という説もありますが、これは史実というより後世の脚色に近いものです。
それでも、彼が盗賊団を率い、京や大坂などで暗躍した大盗賊であったことは間違いありません。
庶民からヒーローと呼ばれた理由
五右衛門が単なる盗賊としてではなく、庶民から義賊と呼ばれたのには理由があります。
伝承によれば、彼が狙ったのは一般庶民ではなく、大名や豪商、権力者たちの屋敷でした。
そして盗んだ財を独り占めせず、貧しい人々に分け与えたとされています。
「金品を庶民にばらまいた」「病に苦しむ人の治療費を助けた」といった逸話は、後世の創作や脚色が加えられている可能性が高いですが、庶民が求めていた痛快な存在としての五右衛門像を表しています。
時代は豊臣秀吉が天下統一を進めていた激動の時代、強大な権力が民衆を圧迫していく中で、「権力者を出し抜き、庶民に味方する存在」は人々の心を惹きつけました。
これはまさに、後の時代に日本のロビン・フッドと呼ばれる理由となったのです。
豊臣秀吉への挑戦と処刑
五右衛門を語る上で欠かせないのが、豊臣秀吉の居城に忍び込んで宝物を盗もうとしたという有名な逸話です。
伏見城や聚楽第に忍び込み、秀吉の秘蔵の香炉を盗もうとしたが仕掛けに引っかかって捕らえられたという話は広く知られています。
ただし、これは歌舞伎や講談で脚色された物語で、史実として確認されているわけではありません。
実際には、秀吉政権に対抗する盗賊団の首領として捕らえられ、見せしめのために厳罰を受けたと考えられています。
処刑は京都・三条河原で行われ多くの群衆が見物に集まりました。
釜茹で刑とは、大釜で湯や油を煮立たせ、罪人を生きたまま入れる残虐な刑罰です。
五右衛門は一族もろとも処刑されたと伝わり、後世には「息子を頭上に掲げて最後まで助けようとした」という美談も加えられました。
彼が残したとされる「我が死をもっても盗人の種は尽きまじ」という言葉は、権力への挑戦であり、不正や格差がある限り盗みはなくならないという真理を突いたものとして語り継がれています。
五右衛門の死後、その存在はすぐに庶民文化に取り込まれていきました。
江戸時代には歌舞伎『楼門五三桐』で「絶景かな、絶景かな」と見得を切るシーンが有名となり、痛快な大盗賊像が庶民に愛されるようになったのです。
彼の実像が不明であるからこそ、講談や歌舞伎は自由に物語を膨らませ、五右衛門は「義賊ヒーロー」として伝説化していきました。
現代に至るまで漫画や映画、ゲームなどさまざまな作品に登場し、その名は不滅の存在となっています。
まとめ
石川五右衛門は、安土桃山時代に実在した大盗賊であり、1594年に釜茹で刑で処刑されたことは確かな史実です。
権力者を狙い、庶民に財を分け与えたという「義賊」のイメージは、庶民が権力に立ち向かうヒーローを求めた結果生まれたものでした。
現実の五右衛門がどのような人物だったかは定かではありませんが、その名が今日まで語り継がれているのは、時代を超えて人々が「権力への挑戦者」を求め続けてきた証といえるでしょう。
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