時代劇や大河ドラマを見ていて「なんで侍って盾を持たないんだろう?」と思ったことはありませんか?
ヨーロッパの騎士は剣と盾で武装していたのに、日本の侍は刀や槍だけで戦っている姿が印象的です。
防御を無視して突っ込むなんて危険すぎるのでは?と感じる人も多いでしょう。
実はそこには、日本独自の戦術、美学、そして武士社会の合理的な判断がありました。
今回は、日本の侍が盾を使わなかった理由を3つの視点から紹介します。
日本にも盾はあった?

まず大前提として、日本にもかつて盾は存在していました。
弥生時代から古墳時代にかけて、木製の持ち盾や置き盾(掻楯)が使われており、防具としての役割をしっかり果たしていました。
さらには動物の皮や鉄を加えた改良型の盾も登場し、戦闘や祭祀で活用されていたことが考古学的にも明らかになっています。
しかし、平安時代以降、こうした盾は次第に姿を消していきます。
戦闘が個人戦から集団戦、そして騎馬戦へと発展するなかで、盾が戦術的に「邪魔な存在」になっていったからです。
では、具体的にどのような理由から盾が必要とされなくなったのでしょうか…。
両手武器の運用が基本?
日本の武器の大半は、盾との併用が難しい「両手使用」が基本でした。
代表的な日本刀は、切る動作に最適化された構造のため、重く厚く作られており片手では扱いづらい設計です。
また、戦場では刀よりも弓や槍、薙刀の方が主力武器とされており、これらもすべて両手で操作することを前提としています。
つまり、片手に盾を持つと攻撃手段そのものが制限されてしまうのです。
日本の戦術思想は、防御よりも攻撃を優先し敵を素早く制圧することに重きを置いていました。
両手で武器を操り、一撃で勝負を決める。
その戦法の中では、盾はむしろ足かせでしかなかったのです。
盾の役割は雑兵、侍は攻撃で功を立てる
戦国時代の戦場において、盾を持っていた兵士がいなかったわけではありません。
しかしそれは、近隣の農民や傭兵などから徴用された「雑兵(ぞうひょう)」であり、侍ではありませんでした。
盾を持つ彼らは、敵の矢や銃弾から本隊を守る「防御班」として配置されていたのです。
一方、侍にとって戦は命を賭けた「評価の場」でした。
敵将を討ち取る、武功を立てる、それによって禄や地位を得るという明確な目標があり、盾を持って身を隠すような防御的姿勢は、評価を得るどころか「臆病」と見なされかねなかったのです。
攻撃に特化し、自らをさらけ出して突き進むことこそが、侍としての本分とされていたのです。
しかし、防御が不要だったわけではありません。
むしろ日本の侍は、非常に発達した防具を身につけて戦っていました。
平安末期には「大鎧」、鎌倉時代には「胴丸」、戦国時代には「当世具足」と、時代に合わせて防御と機動性を両立させた甲冑が進化していきました。
特に「大袖」と呼ばれる肩を覆う部位は、体をひねって前に向けることで、矢などの飛び道具を防ぐ盾のような役割も担い、さらに戦国期になると甲冑は鉄と革を素材とし、全身を守る密着型の防具として完成度を高めます。
つまり、日本の侍たちは、盾を持たずとも、甲冑で十分な防御を実現していたのです。
まとめ
侍が盾を使わなかったのは、偶然でも精神論だけでもありません。
両手で扱う武器が主流であったこと、盾を使う役割は雑兵に限定されていたこと、そして高機能な甲冑が防御の役目を果たしていた、この三点が複合的に重なり盾を持たないという選択が最も合理的だったのです。
むしろ「使わなかった」のではなく、「使う必要がなかった」と言うべきでしょう。
そこにこそ、侍の戦術と誇りが息づいているのですね。
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