残虐な殺人者?それとも時代に翻弄された悲劇の剣士?
幕末という混乱の時代に、「幕末四大人斬り」と呼ばれた4人の男たちがいました。
彼らは正義の名のもとに刀を振るい、歴史の裏側で時代を動かしていた存在です。
今回は、それぞれ異なる思想と運命を持つ四人の生涯に迫ります。
幕末四大人斬りと呼ばれた剣豪4人

田中新兵衛
田中新兵衛(たなか しんべえ)は、薩摩藩出身でありながら、実は船頭や商人の家に生まれた異色の志士でした。
士分の身分は豪商の援助により得たものであり、その出自からくる屈辱感や正義感が、彼の過激な行動の原動力となったと言われています。
彼は剣術に長け、示現流の分派を学んだとされ、1862年に上京すると薩摩藩士らとともに尊王攘夷活動に従事。
とくに有名なのが、安政の大獄に加担した島田左近の暗殺です。
この一件で新兵衛の名は「人斬り」として京都中に轟き、以降も岡田以蔵らと連携しながら複数の要人を天誅の名で斬っていきます。
その最期は悲惨でした。
姉小路公知暗殺事件の実行犯として捕らえられ、尋問中に自ら腹を切り、さらに喉を突いて即死、この一連の事件が本当に彼の手によるものか、いまだに議論が尽きませんが、彼の「暗殺こそ正義」という信念は、確かに幕末を揺るがしました。
河上彦斎
熊本藩の下級藩士に生まれた河上彦斎(かわかみ げんさい)は、外見こそ小柄で色白な女性のようと形容される人物でしたが、剣を手にすると豹変しました。
片手抜刀、逆袈裟斬りを得意とする暗殺の名手で、彼の姿は漫画『るろうに剣心』の主人公のモデルになったとも言われています。
彼の思想は徹底した尊王攘夷、開国政策に絶望し、佐久間象山を白昼の京都市中で惨殺した事件は当時の世間を震撼させました。
逃走後、三条橋に「象山は国賊である」と記した斬奸状を掲げ、攘夷の正義を主張、この潔癖すぎる思想は明治政府にも煙たがられ、最終的には危険思想家として処刑されます。
彼は終始ぶれることなく、幕末から明治初期まで「攘夷」を貫いた数少ない存在です。
その信念の強さゆえに、敵も多かったが、現代においては「信念に殉じた剣士」として再評価されています。
岡田以蔵
土佐藩郷士の子として生まれた岡田以蔵(おかだ いぞう)は、師である武市瑞山のもとで尊皇攘夷の思想を学び、やがて土佐勤王党に参加します。
その高い剣術と実行力で、京都では「天誅の名人」として名を轟かせました。
数々の幕府関係者を斬ったことで、のちに「人斬り以蔵」として恐れられる存在となります。
しかし、剣の腕があっても精神的には決して強い人物ではありませんでした。
土佐に戻った以蔵は、商家への押し借りなどで捕まり厳しい拷問を受けます。
ついに仲間の名前を漏らしてしまい、それが土佐勤王党の壊滅へとつながってしまいました。
最期は打ち首・獄門、享年28歳。
以蔵の悲劇的な最期は、能力と信念だけでは生き残れなかった幕末の過酷さを象徴しています。
後年の創作では悲劇の剣士として人気を博していますが、実像はもっと生々しく人間らしい存在だったのかもしれません。
中村半次郎(桐野利秋)
人斬り半次郎の異名を持つ中村半次郎(のちの桐野利秋)は、幕末期の暗殺者でありながら、明治維新後は陸軍少将にまで上り詰めた異例の存在です。
薩摩藩の下級武士に生まれ、独学で剣術を身に付けた彼は、赤松小三郎暗殺事件の実行犯として知られています。
しかし、他の三人と異なり彼は維新後に新政府に仕え、西郷隆盛の信頼を得て戊辰戦争でも活躍します。
会津若松城の受け取り役を務めた際には、男泣きしたという逸話も残るなど、人間味あふれる武人でもありました。
しかし、征韓論争をきっかけに西郷とともに下野し、やがて西南戦争を起こして政府に反旗を翻します。
そして、城山で西郷の死を見届けたのち、自らも銃弾に倒れ戦死、彼の人生は忠義と反骨が交錯する幕末〜明治の縮図のようです。
まとめ
彼らはそれぞれ異なる信念と正義を持ち、自らの剣で時代に立ち向かったのです。
誰もが「正義」と「狂気」の狭間で揺れ動きながら、それぞれの最期を迎えました。
現代の我々が彼らを振り返るとき、その手が斬ったのは人ではなく、時代の矛盾だったのかもしれません。
今を生きる私たちも、自分なりの「正義」とは何かを問われているのではないでしょうか。
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