第二次世界大戦末期、圧倒的な兵力差のなかでアメリカ軍を苦しめた知略の鬼がいました。
陸軍大佐でありながら、将軍たちの判断に異を唱え、民間人の命さえ救ったその男の姿、今なお戦史に語り継がれる知将「八原博通」の知略と矜持、その全貌に迫ります。
孤高のエリート「八原博通」

八原博通(やはら ひろみち)は1902年、鳥取県米子市に生まれました。
農家出身という厳しい家庭環境の中、抜群の学業成績で米子中学校(現・米子東高校)を首席卒業、当時は軍学校志願者が激減している中、裕福ではない家庭の事情を踏まえ陸軍士官学校に進学します。
その後、八原は陸軍大学校へも最年少で入学し成績は常に上位、特に戦略や戦術分野に強く、教官から講義中に意見を求められるほどの秀才でした。
1929年には恩賜の軍刀を受けて卒業、さらには1933年から2年間、陸大優等生の特典としてアメリカへの軍事留学を経験します。
このアメリカ留学こそ、後の彼の戦略を大きく形作る転機でした。
米国の大学生たちが志願制で高度な軍事訓練を受けている事実、そして莫大な工業力に支えられた火力重視の思想に直面した八原は、こう語ったとされています。
「一番注目しなければばらないのは、彼等が火力を重視していることだ。砲門の数は大差なくても撃つ砲弾の量が違う。日本の野砲はせいぜい1日10発ぐらいだろうが、アメリカの工業力は日本と段違いで、戦時になると軍需生産力は膨大なものになるからいくらでも撃てる。平時のアメリカを見て、戦時の実力を推察しては国を誤る」
この冷静な分析こそ、彼が最後の知将と呼ばれる理由の始まりでした。
アメリカを侮らなかった参謀
当時の日本陸軍では、「アメリカ軍は拝金主義で脆い」といった認識が主流でした。
しかし八原は、アメリカ軍の火力・生産力・教育力を正しく評価していた数少ない軍人です。
それゆえ、彼の戦略はしばしば上層部と衝突しました。
特に大本営作戦課など、いわゆる主流派参謀たちは、精神論や楽観的見通しに固執しており、八原の提言は「慎重すぎる」と退けられることも少なくありませんでした。
1944年、八原は沖縄防衛を担う第32軍の高級参謀(作戦担当)に就任。
すでにアメリカ軍の本格的な上陸が目前に迫っている状況で、八原は真剣にこう考えていました。
「このままでは、日本は滅ぶ。だが、無駄死にさせるわけにはいかない」
彼が取った選択肢は、捨て石ではなく、知略で時間を稼ぐという戦略でした。
寝技戦法、火力差を覆す逆転の発想
八原が立案したのが、いわゆる「寝技戦法」です。
柔道家が力任せのボクサーに対抗するように、火力で劣る日本軍がアメリカ軍に勝つには、持久戦に持ち込む以外ないという発想でした。
沖縄は地盤が固く、洞窟陣地の構築に適していました。
八原は徹底した陣地構築を命令し、地下壕、塹壕、トンネルをネットワーク化、そこからの奇襲・待ち伏せ・包囲といった戦術でアメリカ軍の進撃を分断・混乱させていきます。
事実、1945年には、アメリカ軍の戦車部隊を見事に包囲し、1日で22両の戦車を行動不能にし、兵士2,000人以上に被害を与えたとも言われています。
しかも、これは八原が指揮した限定的な局地戦の成果に過ぎません。
さらに同年6月には、アメリカ軍の司令官サイモン・B・バックナー中将が戦死、これは太平洋戦争全体を通じて、唯一のアメリカ軍司令官の戦死であり、八原の戦術がもたらした象徴的な成果でした。
命を守る作戦が、命を奪う結果に
戦況が不利となる中でも、八原は徹底した持久戦を主張し続けました。
なぜなら、短期決戦に持ち込めば、少数の日本軍は壊滅し、何も得られず終わるからです。
彼は「兵を無駄死にさせない戦い」を信念とし、日本軍が本土決戦まで1日でも多くの時間を稼ぐことこそが目的と考えていました。
しかし、その姿勢は上層部や参謀長・長勇らと軋轢を生むようになります。
やがて彼の反対を押し切る形で、無謀な夜間突撃命令が下され、兵士たちは大損害を被りました。
作戦の失敗に牛島司令官は自決を選び、八原は英語でアメリカ軍に投降を申し出て、数十人の兵士と民間人を救出します。
しかし、戦後の日本では捕虜となったことへの批判が強く、「軍人の面汚し」とまで言われ、孤立していきました。
そん中、八原を評価したのは敵手であるアメリカ軍でした。
アメリカ軍は八原の作戦計画を高く評価、「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」「あれを徹底的にやられたら参る所だった」「沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」と書き残しています。
彼は、自分の作戦によって沖縄県の住民への犠牲に対する責任を強く感じつつも、戦後に沖縄を訪れることはありませんでした。
1981年、78歳で息を引き取りました。
まとめ
八原博通は、火力差・兵力差という絶望的な状況のなかで、知略だけで敵を翻弄し、結果を残した数少ない軍人です。
その戦略はアメリカ側からも高く評価され、戦後の軍事研究でも「極めて合理的かつ効果的」とされています。
しかしその一方で、住民の犠牲を伴う沖縄戦の本質的な悲劇からも目を背けることはできません。
持久戦によって確かにアメリカ軍の進撃を遅らせましたが、それによって救えた命と、救えなかった命の狭間で、八原は生涯苦しんだに違いありません。
戦争の中で知将と呼ばれた男の葛藤は、今を生きる私たちに、合理と倫理の境界をどう捉えるべきかを静かに問いかけているのではないでしょうか。
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