日本プロ野球の歴史に刻まれた伝説の投手「沢村栄治」、ベーブ・ルースら大リーガーを相手に剛速球で立ち向かい、巨人軍初代エースとして輝かしい成績を残しました。
しかし、その未来は戦争によって無残に断ち切られてしまいます。
今回は、野球のすごさと戦争が壊した人生という二つの側面から、沢村栄治の軌跡を紹介します。
17歳で挑んだ伝説の舞台

日本プロ野球の歴史を語るうえで、沢村栄治の名前を外すことはできません。
1917年、三重県の青果商の長男として生まれた彼は、父の指導を受けて野球の面白さに目覚め、京都商業に進学すると甲子園に出場、圧倒的な投球力で全国に名を轟かせました。
その才能が世界に知られることになったのが1934年の日米野球です。
わずか17歳にして全日本チームの先発投手に選ばれた沢村は、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグら大リーグのスターを相手に8回を投げ1失点、剛速球と縦に鋭く落ちるカーブで、当時最強の打線をほぼ完璧に封じ込めました。
当時の全米の監督から「沢村をアメリカによこせ。18歳の彼を2,3年みっちりとファームで仕込んだらきっとメジャーで使える」と賞賛され、日米双方に衝撃を与えた快投は「スクールボーイ・サワムラ」として名を世界に轟かせる出来事となったのです。
プロ野球黎明期と戦争
1936年、日本に職業野球リーグが発足すると、沢村は大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)の初代エースとして活躍しました。
デビュー間もなく日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成し、翌年も快挙を達成、さらにリーグ最多勝や防御率0点台を記録し、初代MVPにも輝きました。
彼の投球は、豪速球と落差の大きなカーブの二枚看板で、打者に「どちらが来ても打てない」「沢村の球はピストルよりも速い」などと恐れられました。
しかし、彼の未来は戦争によって大きく狂います。
1938年、日中戦争の拡大に伴い召集を受けた沢村は、中国戦線に従軍しました。
戦場で課せられた任務は主に手榴弾投げ、野球のボールが150グラム程度なのに対し手榴弾はその3倍以上の重さ、これを投げ続けた結果、彼の誇る右肩は深刻に傷み、投手生命を削ることになります。
さらに武漢攻略戦では左手を撃ち抜かれる重傷を負いマラリアにも感染、ようやく帰国してもかつての剛速球は戻りませんでした。
それでも沢村は巨人のマウンドに戻り、観客の声援を背に最後まで投げ続けます。
成績は往年のようには伸びませんでしたが、懸命に腕を振るその姿にヤジを飛ばすファンは一人もいませんでした。
しかし戦況は悪化の一途をたどり、1941年に召集により歩兵第33連隊に戻りますが、九死に一生を得て帰還します。
1943年には再度巨人に復帰しますが、シーズンが終わると解雇通告を受けて、沢村は現役引退を決めました。
そして、1944年と再び召集を受け、同年12月フィリピン防衛戦に向かう輸送船が米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沢村は海の底で27年という短すぎる生涯を終えました。
沢村の通算成績は63勝22敗、防御率1.74、短期間でありながら圧倒的な数字を残し、巨人の黄金期を築く原動力となります。
もし戦争がなければ、日本人初のメジャーリーガーとして歴史を変えていたかもしれない、それほどまでに彼は突出した存在だったのです。
その功績を称え、巨人軍の背番号「14」は日本プロ野球史上初の永久欠番となり、またシーズンを通して最も活躍した先発投手に贈られる「沢村栄治賞(沢村賞)」として、今も彼の名は生き続けています。
多くの現役投手が目標とするこの賞は、沢村の魂が現代野球に息づいている証といえるでしょう。
まとめ
沢村栄治は、豪速球とドロップで打者をねじ伏せ、日本プロ野球の黎明期を支えた伝説の投手でした。
しかし度重なる召集と戦場での重傷によって体を壊し、27歳という若さで命を落とします。
その短い生涯は、スポーツの可能性と戦争の残酷さを同時に伝えるものです。
永久欠番「14」や「沢村賞」に受け継がれる彼の名は、野球界の誇りであると同時に、平和の大切さを思い出させてくれる存在なのです。
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)