SNSでウサギの楽園として話題になった広島県の大久野島、可愛いうさぎたちに癒される一方で、かつて日本地図からも消され、毒ガス兵器を製造していた島だったことをご存じでしょうか?
リゾートのように見えるこの島には、戦争の加害と被害が交差した闇の記憶が今も静かに眠っています。
ウサギの島として観光でバズった大久野島

近年、大久野島は「ウサギの島」として観光客に大人気となり、SNSでは人懐っこいうさぎが観光客に寄ってくる動画がバズり続けています。
広島県竹原市に属するこの島は、JR忠海駅からフェリーでわずか15分、島内には900羽近くのウサギが自由に跳ね回り、訪れた人々に癒しを与えています。
ピーク時の2017年には、島外からの観光客が年間36万人を超え、キャンプ場、ビーチ、サイクリングコースなども整備され、まさにリゾートアイランドのような雰囲気です。
しかしこの微笑ましい光景の裏に、もう一つの顔があるのです。
戦時中、日本地図からも消された毒ガス島
大久野島には1929年から1945年まで、旧日本陸軍によって秘密裏に毒ガス兵器の製造工場が設置されていました。
国際法で毒ガスの使用が禁止されていたため、この計画は極秘扱い、島民は強制退去させられ、地図上からもその存在が消されるほど徹底した情報統制が行われました。
製造されたのは、イペリット(びらん剤)やルイサイト、催涙剤、嘔吐剤、血液剤など多種多様で、15年間で6616トンもの毒ガスが製造されたとされています。
これは何千万人分もの致死量に相当します。
軍属として動員されたのは延べ約6700人、その多くは毒ガスを扱っていることを知らされないまま、新型兵器の製造として応募していたのです。
実験動物だったウサギ、傷ついた人々の記憶
ウサギのかわいらしい姿が島の象徴になっている一方で、かつてウサギは毒ガス実験のために使われていた過去があります。
ガスの毒性を確認するため、ウサギに投与して反応を観察するなど、軍事研究の犠牲となっていました。
終戦後、処分を免れた数羽のウサギが野生化し、現在の群れにつながっているという説もあります(現在のウサギは戦後に改めて持ち込まれたとする説もあり真偽は分かれている)。
当時の作業員たちは、防毒マスクや防護服を着ていたものの、イペリットはわずかな隙間から浸透し、皮膚炎や気管支炎、肺の損傷などの重篤な健康被害を引き起こしました。
中には13〜15歳の少年や女学生までもが動員され、被ばくに苦しんだ人々の多くは、戦後も後遺症と闘い続けました。
島には、そうした犠牲者を悼む慰霊碑もあり、毎年10月には遺族や関係者が集まる慰霊式が行われています。
戦後も残る毒の爪痕と平和を語り継ぐ役割
終戦後、大久野島に残された毒ガスは火炎放射器で焼却されたり、海洋に投棄されたり、島内に埋設されたりしましたが、その処理はずさんなものでした。
現在でも一部地域では土壌から有害物質が検出されており、島内の飲み水は外部から持ち込まれているのが現状です。
また、島には今も毒ガス製造の痕跡として、発電所跡、貯蔵庫跡、検査室跡、北部砲台跡などが残り、環境省や地元ガイドによる説明を受けながら見学することができます。
中でもボランティアガイドの方は、「ウサギの島という側面だけでなく、加害の島としての歴史も伝えていきたい」と語っています。
現地で実際に遺構を歩き、話を聞くことは、歴史の重みを体感する非常に貴重な体験です。
まとめ
ウ人気を集める大久野島が、その裏には毒ガス兵器の製造という日本の戦争加担の過去があり、多くの命が損なわれた場所でもあります。
地図から消された「毒ガス島」は、今なおその記憶を静かに語り続けています。
この島が背負ってきた歴史にも目を向けること、それこそが、今の私たちにできる平和への責任なのではないでしょうか。
大久野島を訪れる際は、ぜひその両面の真実を感じてほしいと思います。
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