台湾には、戦後70年以上経った今も「神」として祀られる一人の日本人がいます。
第二次世界大戦末期、台南の集落を守るために命を捧げた若き飛行士「杉浦茂峰」です。
現代の台湾でもその信仰は続き、教育や文化にも影響を与えています。
今回は、その数奇な生涯と人々の思いを紹介します。
台湾沖航空戦と若き飛行士の最期

杉浦茂峰は1923年、茨城県水戸市に生まれました。
若くして乙種予科練に入隊し、霞ヶ浦海軍航空隊での訓練を経て台湾へ、20歳の青年は太平洋戦争末期の激戦地に送り込まれたのです。
1944年10月12日、台湾沖航空戦が勃発、米軍第三艦隊による延べ1378機もの航空機が台湾各地を襲撃し、台南上空でも零戦と米軍F6Fヘルキャットが入り乱れる激戦が繰り広げられました。
杉浦は零式艦上戦闘機三二型に乗り込み出撃しますが、尾翼に被弾して炎上、操縦不能となり墜落は避けられない状況となりました。
下に広がっていたのは、台南市安南区の海尾寮という集落で、住民が住む村の中心部に墜落すれば大惨事は免れません。
そこで、杉浦は最後まで操縦桿を握り続け、炎に包まれながらも機体を東側の農地や魚塩池へと誘導、結果として村は救われましたが、杉浦自身はパラシュート降下中に米軍機の機銃掃射を受け、命を落としました。
享年わずか20歳…。
その死は、戦争の悲劇でありながらも、人々の心に「誰かを守るために命を捧げた青年」として深く刻まれることになったのです。
夢枕に立った「飛虎将軍」
終戦後、日本は台湾を放棄し、国民党政府による新たな統治が始まります。
排日政策が徹底されるなかでも、海尾寮の人々の記憶から「集落を救った日本人飛行士」の存在が消えることはありませんでした。
むしろ年月が経つにつれ、不思議な出来事が語り継がれるようになります。
ある住民は「白い軍服を着た若い兵士が夢枕に立った」と証言し、また別の住民は夜な夜な養魚池のほとりに白装束の青年が立っている姿を見たと言います。
人々が地元の大廟・朝皇宮に伺いを立てると、祀られている保生大帝は「この地で命を落とした兵士の魂である」と告げました。
住民たちは、それがあの時集落を守って墜落した杉浦茂峰に違いないと確信します。
1971年、村人たちは杉浦を祀る小さな祠を建立しました。
やがて「飛虎将軍廟」と呼ばれるようになり、1993年には新たに鎮安堂として整備され、今日に至ります。
廟では杉浦を「飛虎将軍」と尊称し、村の守護神として祀るようになったのです。
現代に息づく信仰と日本との絆
鎮安堂飛虎将軍廟の内部には、杉浦の神像が三体安置されています。
中央が本尊で、両脇には分尊が置かれ、信者の希望に応じて家庭に迎えることも可能です。
毎朝夕にはタバコが供えられ、「君が代」と「海ゆかば」が奉納されるという独特の儀式が今なお続いています。
タバコは戦時中、兵士たちにとって数少ない慰めであったことに由来しており、杉浦が生前に好んだであろうという人々の想像と敬意が込められているのです。
この廟は地域の守護神であると同時に、教育や文化にも溶け込んでいます。
近隣の小学校では児童が杉浦の物語を学び、学芸会でその生涯を演じることもあります。
「飛虎将軍の心に触れて、子どもたちが他人を思いやる心を持ってほしい」と、地元の廟管理者は語っています。
さらに、日本との交流も続いており、2015年には日本の有志によって「純日本式みこし」が奉納され、2016年には杉浦の神像が信徒と共に故郷・水戸に里帰りを果たしました。
護国神社での慰霊祭、小学校訪問、市内練り歩きなどが行われ、杉浦の存在は台湾と日本を結ぶ象徴として改めて注目を集めています。
まとめ
杉浦茂峰は、わずか20歳という短い生涯を戦場で閉じましたが、その死は台湾の人々にとって「守護神の誕生」でもありました。
戦後の排日感情や統治の変化を超えて、人々は彼を忘れず、祠を建てて敬い続けたのです。
杉浦の物語は、国境を超えた絆と、他者を思いやる心の象徴として語り継がれてます。
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