幕末の混乱期に、年貢半減を掲げて民衆の喝采を浴びた赤報隊、新政府の先鋒として出発した彼らは、わずか2か月で偽官軍とされ、隊長・相楽総三をはじめ多くが処刑されました。
一見すると「利用されて捨てられた悲劇の集団」に見えますが、その実態は少し複雑な背景になっています。
豪農の息子・相楽総三と赤報隊の誕生
相楽総三は天保10年(1839年)、現在の茨城県取手市周辺にあたる下総相馬郡で、豪農・小島家の四男として生まれました。
経済的に余裕のある家に育ち、若い頃から国学などの学問を学び、20歳前後には自ら私塾を開き、数百人規模の門人を集めたといわれます。
やがて尊王攘夷の思想に傾いた相楽は、「草莽の志士」として各地を遊説し、武士の身分に属さない民間の同志を集めていきます。
こうした活動を通じて、西郷隆盛や岩倉具視らともつながりを持つようになり、慶応4年1月8日、近江国・金剛輪寺で結成されたのが「赤報隊」です。
薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を受け、隊長は相楽総三、綾小路俊実や滋野井公寿などの公家を「盟主」として掲げました。
隊名は「赤心をもって国恩に報いる」ことに由来するとされ、赤報隊には「年貢を半減する」という強力なスローガンが与えられました。
これは新政府側が、旧幕府に反発する農民の支持を得るうえで極めて有効だと考え、勅定書の形で一度は認めた政策だったとされています。
年貢半減を掲げた進軍と偽官軍とされた理由
赤報隊一番隊は、東山道軍の先鋒として信濃へ向かい、中山道の要衝・下諏訪宿などを拠点に活動しました。
街道沿いでは「御一新(維新)の世では年貢を半分にする」と布告し、世直し一揆などで旧幕府に不満を持つ農民から強い支持を集めます。
しかし新政府の財政事情はきわめて厳しく、戊辰戦争の戦費や諸経費で年貢半減を実行できる見込みはほとんどなく、新政府内部では早い段階から年貢半減の約束が取り消され、文書としては証拠を残さないようにされていたと伝えられています。
一方で赤報隊の側にも問題点があり、相楽は軍令に従わず独断行動をとることが多く、信濃へ進出したあとも「碓氷峠を押さえることが重要」として帰還命令に応じず進軍を続けます。
その過程で、官軍の名を掲げて沿道の村々から軍資金や物資を強制的に徴収し、ときには略奪とみなされる行為もあったと記録されています。
こうした事情から、新政府は「年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったものである」として赤報隊を切り捨て、偽官軍として信濃の諸藩に追討を命じました。
結果的に赤報隊は、財政的に履行できない約束をさせられた部隊であると同時に、新政府の名を借りて独断・専横を行った危険な集団とも見なされることになったのです。
捕縛・処刑、そして残された人々
新政府からの追討命令を受け、信濃各藩は赤報隊一番隊への攻撃に踏み切ります。
慶応4年2月中旬、長野県・追分宿付近で小諸藩らが赤報隊を襲撃し、一番隊は大きな打撃を受けました。
相楽は一度出頭して東山道軍への所属を正式に認められますが、その場で赤報隊の「勝手な金策や暴行行為」が諸藩から訴えら、信濃国下諏訪へ向かう途中で拘束された後、渋谷総司ら7名とともに、下諏訪宿はずれで斬首刑となりました。
享年30歳でした。
処刑の際には正式な裁判らしい手続きも十分に行われず、弁明の機会もほとんど与えられなかったといわれます。
相楽の妻・照は夫の死を聞いて自害したと伝えられ、一人残された子どもや遺族は「偽官軍の家系」として長く肩身の狭い思いをしたと言われます。
相楽総三の人生には、身分や出自を超えて活躍しながらも、最終的には体制側に切り捨てられた多くの「草莽の志士」「非武士層」の運命が凝縮されています。
幕末が「誰にでもチャンスのあった時代」であると同時に、「利用価値がなくなった人から容赦なく捨てられていく時代」でもあったことを、赤報隊の足跡は物語っているのかもしれません。
赤報隊の歴史をたどると、単なる「悲劇のヒーロー」でも「ならず者集団」でもない、揺れ動く時代に翻弄された人々の姿が浮かび上がります。
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