幕末の京都で起きた「池田屋事件」は、新選組の名を一気に全国へ轟かせた激闘として知られています。
京都の政局が極限まで緊張していたなか、クーデターを疑われた尊攘派、治安を守ろうとした新選組、それぞれが自分たちの正義を賭けた結果として起きた複雑な事件、今回は池田屋事件の背景から激闘、そして歴史への影響までを紹介します。
尊王攘夷と公武合体、池田屋事件の前夜
幕末の京都は、尊王攘夷と公武合体の思想が激しくせめぎ合い、政治の中心が常に揺れ動いていました。
とくに長州藩は「天皇を中心に外国を排除する」という思想の急先鋒で、朝廷への働きかけも積極的に行っており、その影響力の強まりが警戒され、1863年の「八月十八日の政変」によって、長州は京都から追放されてしまいます。
政変によって力を失った長州側には不満が渦巻き、それを取り戻そうとする過激派の志士たちは、水面下で京都への再進出と武力行使を検討するようになり、池田屋事件はまさにこうした緊張が極限まで高まったタイミングで起きたのです。
古高俊太郎の捕縛、クーデター計画が露見した瞬間
事件を一気に動かしたのは、尊攘派の裏方として活動していた古高俊太郎の拘束でした。
新選組は彼の動きに不審を感じ家宅捜索を行うと、火薬や武器に関連する物資、尊攘派との連絡を示す書簡が見つかり、古高は厳しい取り調べを受けることになります。
後世の講談では拷問が過激に描かれますが、古高が激しい責めを受けた末に仲間の動きや計画を自白したことは確かだと考えられおり、その内容は「風の強い日に御所に火を放ち、混乱に乗じて孝明天皇を長州へとお遷し申し上げるとともに、中川宮を幽閉し、一橋慶喜と会津藩主・松平容保を暗殺する」というものでした。
当時の新選組・会津藩にとっては、都市全体の危機を招く重大な計画に見えたことは間違いなく、尊攘派の集会場所を突き止めるため緊迫した捜査が始まりました。
祇園の夜を駆ける新選組、池田屋突入の全貌
祇園周辺の町屋、旅籠、茶屋をひとつひとつ探りながら、新選組は二手に分かれて尊攘派の潜伏場所を捜索しました。
やがて近藤勇率いる隊が、旅籠「池田屋」の不審な動きに気づきます。
主人の態度からも確信を得た新選組は、隊士を配置し、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら精鋭が二階へ踏み込みました。
狭い室内に集まった20名前後の尊攘派は混乱し、一部は屋根伝いに逃走を試みましたが、近藤らの初撃が強烈だったため体勢を立て直せず、激しい斬り合いに突入します。
この戦闘は「刀がささくれ立つほど凄まじかった」と語られ、近藤隊は数的不利のなかで奮闘、藤堂平助の重傷や沖田の戦線離脱など犠牲も出ましたが、駆け付けた土方歳三率いる隊が周囲の逃走路を完全に押さえたことで形勢は逆転、数時間に及んだ戦闘は新選組の勝利に終わりました。
捕らえられた尊攘派は後に処罰され、この事件は「池田屋事件」として広く知られることになります。
新選組はこの功績により朝廷から褒賞を受け、一気に名声を高め京都の治安維持の中心として存在感を強固にしました。
池田屋事件が残したもの
池田屋事件は、幕府・会津藩・新選組にとっては「京都を守った大功績」であり、尊攘派にとっては「仲間を失った屈辱の日」でもありました。
この事件が引き金となり、翌年には長州が本格的に報復へ動き、京都は「禁門の変(蛤御門の変)」で、火の海となります。
つまり、池田屋事件は倒幕運動を加速させた触媒であり、幕府側が一時的に勝利した象徴でもあります。
しかし長い目で見ると、最終的な勝者は尊王・倒幕側であり、新選組は歴史の大きな流れの中で消えていった側です。
その意味で池田屋事件は、短期的な勝利と長期的な敗北が交差したドラマティックな出来事でもありました。
この事件は教科書の一行ではなく、生々しい歴史としてよみがえってきます。
まとめ
池田屋事件は、尊王攘夷の思想対立、政局の緊張、テロ計画と治安維持、それぞれが複雑に絡み合った結果として起きた事件でした。
新選組は一時的に名声を得たものの、時代の大きな流れは倒幕へ向かって進み、この事件はその過程の象徴でもあります。
幕末の京都に残された跡を歩けば、池田屋事件は「誰かの正義と誰かの怒りがぶつかった夜」として、今も静かに息づいていることに気づかされるでしょう。
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)