2026年度後期のNHK連続テレビ小説『ブラッサム』のモデル、作家・宇野千代、小説家として名作を残しただけでなく、編集者、実業家、着物デザイナーとしても活躍した人物です。
そして何より驚かされるのがその人生、明治から平成まで98年を駆け抜けた生涯は、まるで何本もの朝ドラを凝縮したような壮絶さです。
朝ドラ『ブラッサム』の主人公モデル・宇野千代の波乱万丈人生

宇野千代は1897年、現在の山口県岩国市に生まれました。
幼い頃から非常に成績がよく、女学校時代には全15教科の平均点が92点を超えるほどの秀才、しかしその人生は早くも14歳で大きく動きます。
従兄の藤村亮一と結婚したものの、結婚生活は長く続かず、婚家になじめなかったことなどから、わずか10日ほどで実家へ戻ったとされています。
さらに女学校卒業後は代用教員となりますが、同僚教師と恋愛関係に…教え子に恋文を運ばせていたことなどが問題となり、1915年に免職されます。
失恋後は京城(現在のソウル)へ渡るなど、故郷を離れて各地を転々とします。
その後、22歳で藤村忠と結婚し、夫の仕事の関係で札幌で暮らしていた千代に大きな転機が訪れます。
1921年、何気なく書いた短編『脂粉の顔』を「時事新報」の懸賞小説に応募すると、なんと一等に当選、賞金200円を手にし、続く『墓を発く』も『中央公論』に掲載され、原稿料366円を受け取ります。
当時、大学卒のサラリーマンの初任給が50~60円だったこと考えるとかなりの大金です。
しかし、北海道へ戻る途中、東京の中央公論社で作家・尾崎士郎と出会うと、千代は尾崎に強く惹かれ、そのまま東京で同棲生活を始め、夫の待つ札幌には戻りませんでした。
のちに藤村忠と離婚し尾崎と結婚、現代でも驚く展開ですが、時代は大正です。
さらに驚かされるのが、洋画家・東郷青児との出会い、1930年、千代は小説の取材のため、当時、情死未遂事件で世間を騒がせていた東郷を訪ねます。
ところが、初対面だったその日から、2人は同棲生活を始めたというのです。
東郷との暮らしは千代の美意識にも大きな影響を与え、後に彼の情死事件を題材とした『色ざんげ』を発表、男女の愛憎を鮮烈に描き、作家としてさらに評価を高めていきます。
つまり宇野千代は、自ら経験した恋愛や人間関係さえ、文学へと変えていったのです。
4度目の結婚、雑誌創刊、そして倒産
東郷との別れの後、千代は1936年にファッション誌『スタイル』を創刊、そして新聞記者だった10歳年下の北原武夫と出会い、1939年に結婚しました。
千代42歳、北原32歳、しかも結婚式は4月1日だったため、世間からエイプリルフールでは?と噂されたというエピソードまで残っています。
戦後には『スタイル』を復刊し、着物のデザインにも進出、1949年には「宇野千代きもの研究所」を設立し、自ら着物をデザインするだけでなく、モデルまで務めています。
小説家、編集者、経営者、着物デザイナー、一人で何役こなすのかと思うほどのバイタリティです。
ところが、順風満帆とはいかず、1959年にはスタイル社が倒産、北原との関係も終わり、1964年に離婚しました。
86歳でミリオンセラー
宇野千代の凄さは晩年にもあります。
1957年には代表作『おはん』で野間文芸賞などを受賞、1982年には菊池寛賞、そして86歳となった1983年、自伝的小説『生きて行く私』を発表すると、100万部を超えるベストセラーになりました。
1990年には文化功労者にも選ばれています。
また、枯死寸前だった岐阜県の淡墨桜を知ると、保護のために奔走。募金や行政への働きかけを行い、老木の蘇生にも大きく関わりました。
そして1996年6月10日、98歳で死去…明治、大正、昭和、平成、4つの時代を生きた人生でした。
宇野千代の生涯を追っていると、失敗しても、別れても、仕事を失っても、その場所にとどまらず、次の人生を始めてしまう、その圧倒的な行動力こそ、宇野千代という人物最大の魅力だったのかもしれません。
朝ドラ『ブラッサム』を見る前に彼女の史実を知っておけば、ヒロインの人生がどこまで宇野千代を下敷きにし、どこからドラマ独自の物語になっていくのか…そんな見方も楽しめそうですね。
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