50戦近い戦争で勝率9割超、ヨーロッパを席巻し無敵とまで称された男「ナポレオン・ボナパルト」そんな彼が、1812年のロシア遠征で歴史的な大敗北を喫しました。
この敗北は長らく「冬将軍のせい」と語られてきましたが、近年の研究ではそれだけでは説明できないことが分かっています。
では、なぜ無敵の皇帝ナポレオンはロシアで敗れたのでしょうか…。
勝利を前提にした戦争

ナポレオンがロシア遠征を決断した最大の理由は、ロシア皇帝アレクサンドル1世が「大陸封鎖令」に従わず、イギリスとの貿易を続けていたことでした。
この違反を放置すれば、ナポレオンが築いてきたヨーロッパ支配体制は崩れかねません。
そこでナポレオンは、後継者問題を理由に皇后ジョセフィーヌと離婚し、ロシア皇帝の妹との政略結婚を模索しましたが、交渉は曖昧なまま頓挫、最終的にオーストリア皇女マリー=ルイーズと再婚したことで、ロシアとの関係は決定的に冷え込みます。
1812年、ナポレオンは「ロシアを屈服させればヨーロッパ制覇は完成する」と考え、史上最大級の大軍を動員、その数は最大で約60万~67万人でした。
しかし、純粋なフランス兵は約30万人にすぎず、残りはプロイセン、オーストリア、ポーランドなど同盟国の寄せ集めで、士気や統制は決して万全とは言えず、勝利を前提にした戦争でありながら、足元は不安定だったのです。
冬より前に始まっていた敗北、焦土作戦と夏将軍
ナポレオン軍は1812年6月、ネマン川を越えてロシア領に侵入します。
しかしロシア軍は、正面決戦を避けながら後退し、村や都市、食料庫を焼き払う「焦土作戦」を徹底、ナポレオンが得意とした現地調達による進軍は、ここで完全に封じられます。
さらに致命的だったのが、侵攻初期の異常な消耗です。
大規模な会戦がほとんどなかったにもかかわらず、ナポレオン軍はスモレンスク到達時点で兵力の約3分の1を失っていました。
原因は戦闘ではなく、補給不足、赤痢の蔓延、そして脱走です。
ここで重要なのが、夏の異常気象、従軍兵士の回顧録には、猛暑の中で30キロ近い装備を背負い、長距離行軍を強いられた過酷さが記されています。
近年発見された気象データからも、1812年のロシアの夏は、50年に一度レベルの異常高温だったことが裏付けられています。
9月のボロジノの戦いでナポレオン軍は勝利しますが、その代償は3万人以上の犠牲で、この時点で兵力はすでに講和を強要できる規模ではありませんでした。
モスクワ占領という誤算、退却の遅れが致命傷に
1812年9月14日、ナポレオンはついにモスクワへ入城しますが、モスクワは大規模な火災に見舞われ、食料も物資もほとんど残っていなかったのです。
ナポレオンは、都市を占領すればロシア側が和平に応じると期待していましたが、アレクサンドル1世は沈黙を貫き講和は成立せず、軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツが指摘する通り、ナポレオンはこの時点ですでに「勝てない戦争」を続けていたのです。
10月、初雪が降る中でようやく撤退を決断しますが、帰路では食料不足、寒波、ロシア軍や民兵の襲撃、疫病が一気に襲いかかります。
とくに、ベレジナ川渡河での混乱は壊滅的で、生きて国境を越えられた兵士はわずかで、結果としてロシア遠征で失われた兵力は死者・捕虜・脱走兵を含め約38万人にも達しました。
無敵とされたナポレオン軍は、もはや再起不能な打撃を受けたのです。
まとめ
ナポレオンがロシア遠征で敗れた理由は、焦土作戦による補給崩壊、侵攻初期の異常な猛暑、士気の低い多国籍軍、そしてモスクワ撤退の遅れ、これらが複合的に重なり敗北はすでに夏の段階で決定づけられていました。
無敵の天才であっても、補給・気候・時間という現実を軽視すれば勝てない、ロシア遠征はその教訓をあまりにも大きな犠牲とともに歴史に刻んだ出来事だったのです。
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