1912年4月15日、北大西洋に沈んだ豪華客船タイタニック号、約2200人の乗客・乗員のうち、およそ1500人が犠牲となった20世紀最大級の海難事故です。
実はこの船には、たった一人だけ日本人が乗っており、彼は奇跡的に生還しています。
普通なら、九死に一生を得た日本人として迎えられても不思議ではありませんが、待っていたのは生還を喜ぶ声だけではありませんでした。
細野正文、タイタニック号から生還した日本人
細野正文氏は1870年、新潟県に生まれ、鉄道官僚として勤務し、1910年には鉄道研究のためロシア・サンクトペテルブルクへ留学します。
研究を終えた細野氏は1912年、ヨーロッパから日本へ帰る途中、イギリス・サウサンプトンからニューヨークへ向かうタイタニック号に二等船客として乗船しました。
しかし4月14日深夜、運命が一変、タイタニック号が氷山に衝突したのです。
沈没が避けられないと悟った細野氏は、一時、死を覚悟したといいます。
本人の手記からは、「もう二度と最愛の妻や子供たちを見ることはできない」という思いに襲われながらも、最後まで生きる可能性を捨て切れなかった様子が伝わってきます。
当時、救命ボートへの乗船は女性と子供が優先されていました。
そんななか細野氏は、降ろされようとしている救命ボートに空席があることを知ります。
近くにいた男性が先に飛び乗ったのを見た細野氏も、「誰にも危害を与えない」と判断して飛び下りたといいます。
こうして細野氏は救命ボート10号に乗り込みます。
同じボートにいた男性客は、細野氏を含めわずかだったと本人は記録しています。
やがて巨大なタイタニック号は海中へ…細野はボートの上から、逃げ場を失った人々が助けを求める凄惨な光景を目撃しました。
そして救助船カルパチア号に救われ、生還を果たしたのです。
生き残った男性に向けられた厳しい視線
タイタニック号の事故では「女性と子供を先に」という行動が英雄的に語られる一方、生還した一部の成人男性には厳しい視線が向けられました。
実際、タイタニック号の生存者アーチボルド・グレーシーの記録では、東洋人男性について否定的な扱いが見られ、救命ボートを担当した船員の証言にも、男性がどのように乗り込んだのかを疑問視する内容が残っています。
細野氏についても、海外の記録などから、女性を押しのけて乗ったのではないか?といったイメージが後世まで付きまとうことになります。
しかし、細野氏の手記や他の乗客の記録と照らし合わせた調査から、細野氏は別の救命ボート(10号ボート)に乗っており、人違いであることが判明しています。
むしろ、空席を確認し、先に別の男性が飛び乗った後、自分が乗っても「誰にも危害を与えない」と考えて乗り込んだことが記されています。
ポケットに残っていたあの夜の証拠
そんな細野氏が日本へ持ち帰った非常に貴重なものがあります。
タイタニック号の便箋です。
事故当時、偶然上着のポケットに入っていたもので、救助された後、その紙に沈没時の状況を書き残しました。

ホワイト・スター・ラインのマークやタイタニックの船名が印刷されたこの便箋は、現在、子孫から横浜みなと博物館に寄託されています。
細野正文は1939年に68歳で死去しました。
女性を押しのけて逃げた卑怯者だったのか?空席のある救命ボートに乗り生きる道を選んだ一人の人間だったのか?少なくとも本人が残した手記を読む限り、単純な卑怯者という人物像では説明できません。
1500人近い命が失われた極限状態で、目の前に生き残れる場所があったとしたら…あなたなら、その救命ボートに乗らずにいられたでしょうか。
死を目前にしながら、妻と子供のもとへ帰りたいと願った男性、奇跡の生還以上に胸に残るのは、そのあまりにも人間らしい選択なのかもしれません。
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