明治時代、「高橋お伝」と聞けば毒婦、悪女といった刺激的な言葉が並びます。
しかし近年は、彼女の人生は報道や小説によって大きく脚色され、実像とは異なるイメージが一人歩きしたと言われています。
夫の看病、貧困、裏切られた恋人、そして借金の果てに起きた殺害事件、さらに死後も遺体までもが好奇の目にさらされたとされるお伝、その数奇な生涯を紹介します。
貧困と差別の中で生きた若き日のお伝
高橋お伝(本名:でん)は、嘉永元年(1848年)に現在の群馬県利根郡で生まれたと言われています。
出生については、実父が沼田藩家老であったという説など複数の話が存在し、正確なところははっきりしていません。
幼い頃に養子に出され、養家のもとで成長したお伝は美しい女性として評判だったと伝えられており、19歳で同郷の高橋浪之助と結婚し夫婦は横浜へ移ります。
しかし、浪之助がハンセン病(当時恐れられた不治の病)を患ったことで生活は急変、差別にさらされる中でもお伝は献身的に夫を支え、治療費を稼ぐため娼婦として働いたとも言われています。
それでも努力は実らず、明治5年(1872年)に夫は病死、弱冠20代で未亡人となったお伝は、深い悲しみとともに貧困に直面することになりました。
夫を失ったのち、お伝は小川市太郎という男と恋仲になりますが、市太郎は賭博に溺れ生活費を次々と浪費、お伝はさらに借金を抱え、追い詰められていきました。
後藤吉蔵殺害事件の真相
明治9年、お伝が古着屋の後藤吉蔵に借金の相談をしたことが、運命を大きく変えることになります。
吉蔵は金を貸す条件として「一晩を共にする」ことを持ちかけたと報じられています。
翌朝、吉蔵が「金は貸せない」と告げたため、怒りと絶望に駆られたお伝が喉を切りつけ殺害したと新聞は伝えました。
ただし、この事件には複数の証言があり、吉蔵が自殺を図ったとする説や口論のもみ合いの中で負傷させてしまったとする記述も残されています。
お伝自身も裁判では一貫して「自殺だった」と主張していたと言われています。
裁判では、金を騙し取る目的で色仕掛けを使った上で殺害したと認定されましたが、当時の新聞の多くがセンセーショナルな記事を競ったため、真相は現在でも完全には明らかではありません。
毒婦お伝という虚像、過熱報道と脚色の嵐
お伝が毒婦として語られるようになった背景には、明治期のメディア事情が大きく影響しています。
当時の新聞は販売競争が激しく、事件に脚色を加えることが珍しくなかったと言われています。
お伝の死後、小説・歌舞伎・新聞記事は彼女を「男をたぶらかし、夫を毒殺し、何人も殺害した悪女」と描き立てました。
これらの内容の多くは事実とは異なり、創作が多く含まれていたと考えられています。
また、お伝の美貌が強調され、妖艶な毒婦というイメージが世間に広まりました。
実際には、夫への献身や生活苦の中での葛藤があったにもかかわらず、そうした側面はほとんど報じられなかったと言われています。
死後も続いた侮辱、遺体の標本化と奇妙な伝承たち
明治12年(1879年)、お伝は斬首刑に処されました。
29歳という若さでした。
しかし悲劇はその後も続きます。
お伝の遺体は軍医によって解剖され、その一部(性器)がアルコール漬けにされ標本にされたと語られています。
学術目的ではなく、「淫乱な女の標本として面白がった」という証言が残っているとも言われ、現在では人権的な問題として語られることが多いエピソードです。
また、頭蓋骨が別の医師に保管されていたという話や、後に“お伝の情夫だった”と名乗る僧侶がその頭骨に涙したという物語も伝承として残っています。
これらはどこまでが事実かは不明ですが、お伝の死後も彼女が娯楽として消費され続けた存在であったことを象徴しています。
まとめ
高橋お伝は、真相が不確かな部分も多いにもかかわらず、彼女は新聞、小説、歌舞伎の題材として都合よく脚色され続けました。
伝えられてきた悪女像は、当時の社会やメディアが生んだ偏見でもあります。
お伝の人生を見つめ直すことは、歴史に埋もれた女性たちの声を拾い上げる意味を持っていると言えるでしょう。
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