「世界最大の戦艦」として知られる戦艦「大和」、その巨大な46センチ主砲や重装甲は今なお語り継がれています。
では、その大和を生み出す日本の造船技術は、いったい誰が築いたのでしょうか?その歴史をたどると、一人の天才的な造船技術者に行き着きます。
平賀譲、海軍軍人になれなかった少年

平賀は1878年、東京に生まれ、幼いころから海軍を志したものの、猛勉強の影響もあって極度の近視となり、兵役の身体検査では不合格になったとされています。
普通なら、ここで海軍への夢は終わっていたかもしれません。
しかし平賀は発想を変えます。
「軍人になれないのなら、軍艦を造る側になればいい」
東京帝国大学工科大学造船学科へ進み、卒業後は海軍の造船官となりました。
さらにイギリスへ留学し、当時世界最高水準だった造船技術を吸収、ドレッドノートなど新世代の軍艦を目の当たりにします。
帰国した平賀は、外国の軍艦を模倣するだけだった日本から、日本独自の軍艦を設計する時代への転換を進めていきます。
「長門」で見せた平賀流の設計思想
平賀の名前を一躍知らしめた艦の一つが、戦艦「長門」です。
第一次世界大戦のユトランド沖海戦では、強力な火力を持つ艦艇が次々と撃沈され、その戦訓から平賀が重視したのが、限られた重量をどこに使うかという考え方でした。
機関や弾薬庫など、破壊されれば致命傷となる重要区画を集中させ、その周囲を強力な装甲で守る、すべてを同じように守るのではなく、「絶対に守らなければならない場所を徹底的に守る」という発想です。
この思想は後の日本戦艦にも受け継がれ、大和型にも重要区画を強固な装甲で防御する考え方が採用されました。
さらに世界の造船関係者を驚かせたのが軽巡洋艦「夕張」でした。
軍縮の時代、日本海軍には「できるだけ小さな船体で高い戦闘力を実現する」という難題が突きつけられます。
そこで平賀が基本計画を担当し、藤本喜久雄らとともに生み出したのが夕張です。
限られた排水量の船体へ武装、防御、機関を効率よく配置する設計は、日本海軍が得意とする「コンパクトな船体への戦闘力の集中」を象徴する存在となり、1928年には「高速度艦船に関する研究」によって帝国学士院賞を受賞、平賀は軍人であると同時に、日本を代表する造船研究者でもあったのです。
頑固すぎて「平賀不譲」
ところが平賀は、決して付き合いやすい人物ではなかったようです。
自分が技術的に正しいと考えたことは簡単には曲げない、その頑固さから、名前の「譲」に引っかけて「平賀不譲(ゆずらず)」と呼ばれるほどでした。
部下だった藤本喜久雄との対立も有名で、皮肉にもその藤本が中心となった設計思想は後に事故を契機として見直され、平賀は再び海軍の艦艇設計に大きな影響力を持つようになります。
そして1930年代、日本海軍はいよいよ史上最大級の新戦艦、後の「大和型」の計画へ進んでいきました。
大和型の設計では多数の案が検討され、最終的な設計・建造には福田啓二、牧野茂をはじめ多くの技術者が携わりました。
そのため、「平賀譲=大和を一人で設計した人物」ではありません。
しかし、長門や夕張などで培われた重量配分、船体設計、重要区画への防御集中といった日本海軍独自の設計思想、その技術者たちを育てた系譜を考えれば、平賀はまさに「大和への道をひらいた人物」の一人でした。
実際、大和の設計主任を務めた牧野茂も平賀の薫陶を受けた技術者でした。
軍艦の父が東京帝国大学総長に
軍艦設計の第一線を離れた後、東京帝国大学で教育・研究に力を注ぎ、1935年には工学部長、1938年には東京帝国大学総長に就任しました。
ところが就任直後、経済学部では河合栄治郎と土方成美を中心とする教授陣の対立が激化、平賀氏は両教授の休職を文部大臣に具申し、多数の教員が辞職する事態へ発展、後に「平賀粛学」と呼ばれる大事件となりました。
この措置については現在も評価が分かれており、大学自治を守るための苦渋の決断だったとする見方がある一方、教授会の自治を損なったとの批判もあります。
1943年2月17日、平賀は東京帝国大学総長在任中に死去、64歳でした。
軍人を目指しながら近視によってその道を断たれた少年は、やがて日本を代表する造船技術者となり、最後には日本最高峰の大学のトップにまで上り詰めたのです。
そして彼が生涯をかけて追求した「限られた条件の中で、最大の性能を引き出す」という軍艦設計思想、その技術の積み重ねの先に、日本海軍が最後にたどり着いた巨大戦艦「大和」がありました。
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