「星の王子さま」はなぜ、これほどまでに人の心を捉えるのでしょうか。
作者であるサン=テグジュペリの人生をたどると、その答えが自然と見えてきます。
極限状態の砂漠での遭難、戦争での葛藤、そして謎に包まれた最期、壮絶な人生を生き抜いた彼の物語は、作品そのものよりも物語的なのかもしれません。
没落貴族の家に生まれ孤独に磨かれた感受性

サン=テグジュペリは1900年、フランス・リヨンで生まれました。
伯爵家の子と語られることがありますが、実際には没落寸前の地方貴族であり、裕福な暮らしとは程遠いものでした。
彼は3歳で父を亡くし、母と兄弟たちは親族の邸宅を転々とする生活を送ります。
この経験は家庭の安定を奪うものでしたが、彼の内面に独特の感受性を育て、後の文学作品の根幹となりました。
少年時代の彼は、リヨンの学校やスイスの聖ヨハネ学院で文学に傾倒し、同時に機械や飛行機への興味も強く、空への憧れを抱くようになります。
周囲に馴染めず孤独を抱えながらも、言葉と空という二つの世界が、サン=テグジュペリの人格を形づくっていきました。
航空郵便パイロットとして命を懸けた日々
若くして兵役に志願したサン=テグジュペリは、陸軍航空隊でパイロットとなります。
退役後は自動車販売員などを経験したのち、ついに航空郵便会社に採用され、欧州から北アフリカ、南米などの危険な航路を飛び回りました。
夜間飛行の孤独、機体の振動、果てのない空の暗闇、そのすべてが彼の作品『南方郵便機』『夜間飛行』『人間の大地』に結晶として表れています。
彼にとって空とは、ただの仕事場ではなく、人間の尊厳と勇気を見つめる哲学の場だったのです。
リビア砂漠の遭難『星の王子さま』を生んだ極限体験
1935年、サン=テグジュペリはフランス~ベトナム間の最短時間飛行記録に挑戦します。
しかし、エンジントラブルが発生し、サハラ砂漠に不時着不時着します。
過酷だったのはここからです。
持っていた水はわずか、食料は干しブドウ、ビスケット、オレンジ程度、灼熱の太陽の下で脱水症状が進み、やがて幻覚を見るほど追い詰められました。
歩いても砂漠が続き、方向もわからない、死がすぐそこにあることを自覚しながら、砂の上をさまよったといいます。
遭難から4日目、遠くにアラブ系遊牧民の姿が現れ奇跡的に救助されます。
この死の淵の体験は、後に描かれる「星の王子さま」の出会いに色濃く反映されました。
「星の王子さま」が世界中の読者を惹きつける理由のひとつは、作者自身の孤独と死の恐怖が強烈に刻まれているからなのです。
戦争・消息不明、そして永遠の伝説へ
第二次世界大戦が始まると、彼は飛行教官として招集されますが、本人は危険な前線を強く望み偵察隊に転属します。
偵察任務は最も死亡率が高く、仲間が次々と戦死していきました。
フランスが占領されるとアメリカへ渡り、ニューヨークでの孤独の中で『星の王子さま』を執筆、1943年に出版され、フランスでは没後出版となりました。
そして1944年7月31日、コルシカ島の基地から偵察任務に飛び立ったサン=テグジュペリは、そのまま消息を絶ちます。
事故だったのか、撃墜だったのか、自殺だったのか、当時はすべてが謎に包まれていました。
1998年、マルセイユ沖で彼の身元タグが発見され、2000年にはロッキードP-38の残骸が海で見つかり、彼が海へと消えたことだけは確かになります。
興味深いのは、後年ドイツ軍の元パイロットが「撃墜した敵機がサン=テグジュペリだったと知っていれば、絶対に撃たなかった。私は彼のファンだった」と証言したことです。
戦争は、才能ある者すら容赦なく呑み込んでしまう残酷さを物語っています。
まとめ
サン=テグジュペリは、作家であり、命知らずの飛行士でもありました。
孤独な幼少期、危険だらけの航空郵便、極限の砂漠遭難、そして戦争での最期、彼の生涯には苦難が満ちていましたが、そのすべてが『星の王子さま』のやさしさと鋭さにつながっています。
空へ散ったパイロットの物語は、永遠に語り継がれるでしょう。
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