戦争と聞いて思い浮かぶのは、銃声や爆撃、悲しみの歴史ですよね…?しかしその最前線に「笑い」を届けようとした人たちがいました。
日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の人気芸人たちが命がけで戦地へ向かった慰問団「わらわし隊」、彼らは兵士を笑わせ、束の間の人間らしさを取り戻させました。
今回は、吉本興業の戦時慰問「わらわし隊」について紹介します。
戦地に笑いを届けるために生まれたわらわし隊
明治時代に創業した吉本興業は、寄席や劇場を基盤に「人を笑わせる」ことを事業の中心に据えてきました。
1931年(昭和6年)の満州事変以降、日本社会は次第に戦時体制へと傾いていきます。
そうした中、1937年(昭和12年)の日中戦争開戦を境に、前線で疲弊する兵士たちを慰問する動きが本格化したのです。
この慰問活動を主導したのが、朝日新聞と吉本興業で、両者は協力し芸人を戦地へ派遣して演芸を披露する慰問団を編成しました。
これが後に 「わらわし隊」 と呼ばれるようになります。
名称の由来は、当時航空部隊の異名だった「荒鷲(あらわし)」をもじった「笑鷲」。つまり「笑いで兵士を鼓舞する部隊」という意味合いが込められていました。
当時のスター芸人たちが前線へ
わらわし隊の特徴は、売れていない芸人の寄せ集めではなく、当時すでに全国的な人気を誇っていた芸人たちでした。
代表的なのが、しゃべくり漫才の礎を築いたエンタツ・アチャコです。
慰問は、一度に15人前後の芸人が派遣、2班に分かれて約1か月かけて巡回、公演回数は100回以上で訪問地は80カ所以上という、極めて過酷なスケジュールだったとされています。
会場には兵士が殺到し、入りきれず窓から覗く者、20キロ以上歩いて駆けつける人もおり、公演は深夜まで続くことも珍しくなかったといいます。
戦場で人はなぜ笑い泣いたのか
わらわし隊の芸が兵士の心を強く揺さぶった理由は、そのネタの内容にあります。
彼らが多く扱ったのは、家族の話、子どもの失敗談、故郷での何気ない日常といった、戦場では決して手に入らない普通の生活でした。
証言では、「被害が大きい部隊ほど、よく笑い、よく泣いた」と語られています。
極限状態に置かれた兵士たちにとって、笑いは単なる娯楽ではなく、自分が人間であることを思い出す手段だったのかもしれません。
一方で、公演場所は決して安全ではなく、双眼鏡で敵陣が見える距離、空襲警報が鳴れば壕へ退避し、電気がない場所ではロウソクや懐中電灯で舞台を行う、芸人たちもまさに戦場で戦っていたのです。
女性漫才師の死と、靖国神社に祀られた理由
こうした慰問活動の中で、最も重い悲劇が起こります。
1941年(昭和16年)、小規模な慰問団が移動中に敵軍の襲撃を受け、負傷した将校を助けようとした、漫才師の桂金吾と女性芸人の花園愛子が、大腿部を撃たれ出血多量で死亡します。
この出来事により、彼女は女性漫才師として唯一、靖国神社に合祀されました。
人を笑わせるために前線へ行き、命を落とした芸人、彼女の存在は戦争がいかに多くの立場の人間を巻き込んだかを象徴しています。
まとめ
わらわし隊の活動は、戦場で苦しむ兵士を少しでも元気づけたいという思いがありました。
芸人たちは安全な後方ではなく、敵陣が見える距離や空襲下という極限状況で舞台に立ち続けました。
わらわし隊の歴史は決して美談ではありません、お笑いが人を救った一方で、その笑いを届けた側もまた犠牲になった…その事実こそが、今も私たちに重い問いを投げかけているのです。
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