1877年、日本で最後となる内戦「西南戦争」が勃発しました。
立ち上がったのは、明治維新の英雄であり「維新の三傑」の一人、西郷隆盛、なぜ彼は自ら築いた明治政府に反旗を翻したのでしょうか。
武士が一気に居場所を失った明治の改革
明治政府は近代国家を目指し、矢継ぎ早に改革を進めました。
廃刀令によって刀は奪われ、秩禄処分で武士の給料は廃止。さらに徴兵令により、武士だけが国を守る時代は終わりを迎えます。
この流れに最も心を痛めていたのが、西郷隆盛でした。
「武士が食うに困り、心を失えば、世は必ず乱れる」
これまで特権階級だった士族(元武士)は、誇りも生活も一気に失い、不満が全国で高まる中、西郷は特権を守ろうとしたのではなく、誇りと役割を失った人々が社会の不安定要因になることを危惧していたのです。
政府中枢から鹿児島へ
西郷は明治政府の中心人物でしたが、朝鮮問題を巡る「征韓論」で意見が対立、1873年の明治六年政変で政府を去り、鹿児島へ戻ります。
鹿児島に戻った後も、政府に対して武力蜂起を呼びかけたことは一度もなく、私学校も表向きは士族の教育と自立を目的としたものでした。
本人も周囲にこう語っています。
「政府と戦うつもりなど、毛頭ない」
しかし政府側は、私学校を危険視し密偵を鹿児島へ派遣、さらには弾薬庫の武器を秘密裏に移送し始め、さらには「西郷暗殺計画」の噂まで広がります。
この行動が鹿児島の空気を一変させ、若い士族たちの怒りは止まらず、1877年、西南戦争が勃発します。
西郷自身は最後まで「反乱」を望んでいなかったとも言われています。
熊本城と田原坂、近代兵器vs武士の戦
薩摩軍が最初に狙ったのは難攻不落の熊本城、加藤清正が築いた名城は50日以上も持ちこたえ、西郷は「清正公に負けた」と嘆いたと伝えられます。
決定的だったのが田原坂の戦い、薩摩軍は剣に長けた士族、官軍は徴兵された農民兵、しかし官軍は最新の銃と大砲、圧倒的な弾薬を持っていました。
泥と雨の中で続いた17日間の死闘は、近代戦の現実を突きつける結果となります。
城山で迎えた西郷の覚悟
敗走を続けた薩摩軍は鹿児島・城山へ、城山で包囲された西郷は、最期にこう語ったとされます。
「晋どん、もうここらでよか」
西郷が自刃する直前に、介錯を頼んだ別府晋介に言ったとされる言葉です。
彼が命をかけて守ろうとしたのは、武士の誇り、筋を通す生き方、そして急ぎすぎる近代化への警鐘でした。
それは「この国は何を失い、どこへ向かうのか」という、明治日本が突きつけられた大きな問いだったのです。
西南戦争が日本に残したもの
この戦争で、武士の時代は完全に終わり、以降、不満は武力ではなく、言論や政治運動へと向かいます。
一方で、徴兵された非武士が国家を守り抜いたことで、国民皆兵という新しい価値観が定着、日本は近代国家へ大きく舵を切ったのです。
西南戦争は、ただの反乱ではありません。
それは、日本が次の時代へ進むために避けられなかった、痛みを伴う転換点だったと言えるでしょう。
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