白衣の天使として知られるナイチンゲールですが、その素顔は決して優しいだけの女性ではありませんでした。
部下の私生活を厳しく管理し、長年支えてくれた親族を裏切り者と罵り、病気で衰弱した友人にさえ仕事を続けるよう求めたといいます。
近代看護の礎を築いた偉人は、なぜこれほど冷酷ともいえる行動を取ったのでしょうか…。
ナイチンゲール、白衣の天使の強権的な素顔?

1820年、裕福な家庭に生まれたフローレンス・ナイチンゲールは、家族の反対を押し切って看護の道へ進み、1854年にはクリミア戦争に従軍し感染症が蔓延する軍病院で負傷兵の看護に尽力します。
しかし、兵士たちから感謝される一方、部下の看護師たちに対しては徹底した管理を行っていたと伝えられています。
午後8時30分の門限を厳守させ、夜になると看護師たちの部屋に鍵をかけ、その鍵を自分の枕の下に置いて眠っていたという逸話や、医療関係者との恋愛を禁止するなど、仕事だけでなく私生活まで統制していたとされます。
軍の責任者とも衝突を繰り返し、物資を確保するために倉庫をハンマーで開けたという話も残っており、彼女にとって自分の方針に従わない相手は、改革を妨げる存在だったのかもしれません。
また、ジャマイカ出身のメアリー・シーコールは、看護団への参加を認められず自費で戦地へ向かいましたが、ナイチンゲールは彼女が営む施設を売春宿になぞらえて批判したとされています。
ナイチンゲールは、人々を救うという使命を掲げながら、他者に対しては排他的な一面も持っていたのです。
改革の陰で犠牲になった協力者たち
ナイチンゲールの冷徹さがさらに際立つのは、戦争が終わってからのことです。
帰国後、37歳頃に病気で倒れた彼女は長い療養生活に入りましたが、病床から統計資料を作成し軍病院の衛生改革を推進、1860年には看護師養成学校を設立するなど、近代看護の発展に大きく貢献しました。
ところが、その偉業を支えた人々は、彼女の容赦ない要求に苦しめられたといいます。
幼い頃から彼女を支えていた叔母のメイは、家庭生活を犠牲にするほど膨大な仕事を任され、耐えられず離れることを決めると、感謝するどころか裏切り者と非難したと伝えられています。
秘書のような役割を担った詩人アーサー・クラフも、看護師養成学校の設立などに奔走し、1861年に39歳の若さで亡くなりました。
激務による健康への影響も指摘されていますが、死因との直接的な関係は明らかではありません。
さらに衝撃的なのが、長年の協力者だった政治家シドニー・ハーバートとの関係です。
腎臓の病気で衰弱したハーバートは引退を考えていましたが、ナイチンゲールは改革が終わっていないとして、仕事の継続を求めたといいます。
ハーバートはその後も職務を続け、1861年に50歳で亡くなりました。
彼女の要求が死期を早めたという見方もありますが、因果関係を断定することはできません。
それでも、身近な人々の健康や生活より、改革を優先しようとした彼女の姿勢は、一般に知られる白衣の天使のイメージとは大きく異なります。
多くの命を救うために生涯を捧げた女性は、同時に理想の実現のためなら身近な人にも容赦しない、強烈な信念を持つ人物だったのです。
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