封印された戦後史「性の防波堤」とは何だったのか?終戦直後の日本で起きた知られざる歴史

終戦からわずか数日後、日本政府は占領軍向けの慰安施設「RAA(特殊慰安施設協会)」の設立、その目的は一般女性を性暴力から守るためとされていましたが、その裏では多くの女性が過酷な環境に置かれていたことが近年の研究で明らかになっています。

戦後80年を迎えたいま、あまり語られてこなかったRAAの実態と、その後の社会に残した影響とは…。

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性の防波堤として始まったRAA(特殊慰安施設協会)

RAA(特殊慰安施設協会)
Via|Wikipedia「特殊慰安施設協会の広告・毎日新聞1945年9月4日」公式より

1945年8月、日本が終戦を迎えると、政府が最も懸念したのは占領軍兵士による性犯罪でした。

終戦からわずか数日後、東久邇内閣は占領軍向け慰安施設の設置を決定し、内務省は各都道府県へ秘密通達を出します。

東京では「特殊慰安施設協会(RAA)」が設立され、外務省や内務省、大蔵省、東京都、警視庁などが連携して施設の整備を急ぎ、最初の慰安所は終戦から約2週間後には営業を開始し、その後は全国へ広がっていきます。

当初は、芸妓や遊郭で働いていた女性を中心に集めようとしていましたが人手が足りず、戦争で家族を失った女性や生活に困窮していた一般女性も募集対象となります。

新聞広告では、高収入や衣食住の保障がうたわれ多くの女性が応募しましたが、現実は想像以上に過酷でした。

施設では一日に何十人もの兵士の相手をさせられたという証言も残されており、近年公開されたGHQの検閲資料には、「料理店だと思って来たら売春施設だった」「前借金のため逃げられない」「毎晩泣いている」といった女性たちの手紙も残されています。

中には精神を病んだ人や、自ら命を絶った人がいたことも記録されています。

政府は、一般女性を守るためという理由を掲げましたが、その役割を担わされたのは生活に困窮した女性たちで、現在では一部の女性を犠牲にして社会を守ろうとした政策だった、という厳しい評価も少なくありません。

慰安所閉鎖後も続いた問題と現在の評価

RAAの慰安所は1946年春ごろになると、性感染症の拡大などを理由に占領軍の立ち入り禁止措置が取られ、短期間で事実上閉鎖されます。

当時のRAA関係者は後年、「慰安施設があったから一般女性への被害を防げた」と振り返っていますが、近年公開された米軍資料や研究では、慰安所が存在していた時期にも米兵による強盗や暴行、性犯罪は発生していたことが確認されています。

そのため、RAAが性犯罪を防いだ、という見方には慎重な意見も多く、研究者の間でも議論が続いています。

また、国家が女性を「性の防波堤」と位置付けたこと自体が、その後の基地売春や赤線地帯の拡大につながったという指摘もあります。

さらに、占領期にはGIベビーの問題や中絶、女性への社会的偏見など、多くの課題も生まれました。

戦後復興の陰では、こうした女性たちの苦しみが十分に語られることなく歴史の中へ埋もれていった側面があります。

近年は機密資料やGHQ文書の公開が進み、当時の実態が少しずつ明らかになっており、これまで戦後復興の華やかな部分だけが語られがちでしたが、その裏には国家の政策によって人生を大きく左右された女性たちがいたことも忘れてはならない歴史の一つと言えるでしょう。

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