パラオは、世界有数の親日国として知られています。
その背景には、過去の日本統治時代と、第二次世界大戦末期に行われたペリリュー島での激戦が深く関わっています。
ペリリュー島の戦いは、日本兵と島民の絆、そして日本軍が島民の命を守るために払った犠牲が語り継がれています。
パラオの歴史と日本統治の始まり
1885年、パラオはスペインの植民地となり、その後ドイツに売却されました。
ヨーロッパ列強の支配下では、パラオの住民は搾取と虐殺に苦しみます。
教育やインフラ整備は一切行われず、天然痘の流行や過酷な労働で人口はわずか半世紀で90%も減少しました。
そんな中、第一次世界大戦後の1919年、パリ講和条約でパラオは日本の委任統治領となります。
日本の統治はそれまでの白人支配とは全く異なり、学校や病院、道路、水道などのインフラ整備を行い、教育や医療の 支援を行いました。
結果として、パラオの人口は2万人から5万人へと増加し、住民の生活水準も飛躍的に向上し、統治時代、日本とパラオの人々はともに生活し、信頼と友情の絆を築きました。
これにより、島民たちは日本人を恐れるどころか信頼し、尊敬の念を抱くようになりました。
その中で、兵士たちによる唱歌は、島民たちと共に歌い、彼らも「さくら」や「「ふるさと」」などの日本の曲を覚えていきました。
現在も多くのパラオ人が「日本の統治時代が最も良かった」と語る理由がここにあります。
ペリリュー島の戦いと島民の疎開
1944年9月、戦況が悪化する中、アメリカ軍がペリリュー島に上陸。
日本軍は劣勢ながらも圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対して、持久戦を決意します。
守備隊長の中川州男大佐を中心に、洞窟を利用したゲリラ戦を展開し、73日間にわたり激しい戦闘を繰り広げました。
戦況が悪化すると、ペリリュー島の守備隊長・中川州男は、安全な別の島への疎開を命じます。
戦闘が始まる前、ペリリュー島の住民たちは「日本兵と共に戦いたい」と訴えました。
しかし、中川隊長は激怒し、「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と島民を厳しく拒絶。
この発言に島民たちは深く傷つき、「日本人に見下されていたのか…」と失望。
日本人への怒りと失望を抱えながら避難船に乗り込みました。
しかし、島を離れる瞬間「砂浜には日本兵全員が現れ、手を振りながら日本の歌『ウサギ追いしかの山』を歌い、帽子を振りながら島民の安全を祈り別れを告げました。」
その中には、中川隊長の姿もあった…島民たちを戦火に巻き込ませないため、救うためのものだったと理解しました。
その結果、島民たちは安全な別の島へ疎開させられ、一人の死傷者も出ることなく命を守られました。
終戦後、疎開先から戻った島民たちは、戦火で荒廃したペリリュー島と、日本兵の亡骸を目の当たりにして涙しました。
この行動が、戦後のパラオ人たちの日本への感謝の念につながります。
日本兵の玉砕とアメリカ軍の評価
アメリカ軍との戦闘は凄惨を極めました。
物資や弾薬が尽きた日本軍は玉砕を覚悟し、最後まで戦い抜きましたが、最終的に、約1万人の日本兵が命を落とし、生き残ったのはわずか数十名という壊滅的な状況でした。
戦闘後、アメリカ海軍のニミッツ提督は「この島で戦った日本兵の勇敢さと愛国心を、訪れる全ての人々が知るべきだ」と語り、敵味方を超えた敬意を表しました。
戦後のパラオと日本への感謝
戦後、パラオはアメリカの統治下に入りましたが、反日教育は失敗に終わりました。
彼らは日本兵の遺体を丁寧に埋葬し、後に「西太平洋戦没者の碑」を建てて供養しました。
パラオ人は日本統治時代の恩恵を忘れず、現在も親日国家として知られています。
1994年に独立を果たした際には、「日の丸」に似た国旗をデザインし、日本への感謝と敬意を込めました。
また、パラオの教科書には、日本統治時代の歴史が詳しく記載されており、次世代に伝えられています。
まとめ
ペリリュー島の戦いは、戦争の悲劇と日本兵の自己犠牲、そして島民への配慮、島民を守るために命を懸けた日本兵の行動は、単なる戦争の一場面ではなく、人間としての尊厳と信念を示したものです。
戦後、島民たちは命を救ってくれた日本兵への感謝の気持ちを忘れることなく、遺体を丁寧に埋葬し、現在も墓地の清掃を続けています。
彼らにとって、日本軍は単なる占領者ではなく、命を守り、共に生活した信頼の対象だったのです。
ペリリュー島の物語は、私たちが歴史の中で見失いがちな「人間の絆」や「助け合いの精神」を思い出させてくれます。
この歴史を胸に刻み、未来に向けて何を学び、どう生きるべきかを考えてみてはいかがでしょうか。
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