華族廃止…華族令嬢「柳原白蓮」の波乱万丈な儚い人生

華族廃止…華族令嬢「柳原白蓮」の波乱万丈な儚い人生

華族って何?その廃止によってどんな影響があったのか?

華族制度の概要からその廃止まで、そして柳原白蓮のドラマチックな人生について詳しくご紹介します。

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柳原白蓮の愛と自由を求めた道

柳原白蓮の愛と自由を求めた道
出典|Wikipedia

華族とは?

華族とは、明治時代初頭から第二次世界大戦終結後まで存在した日本の貴族階級のことです。

明治政府が設けたこの制度は、中央集権化と近代化を目指して旧公家や武家を取り込み、特権を与える一方で、困窮する華族も存在しました。

華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つの爵位に分けられ、最上位の公爵には摂家や徳川宗家、薩摩藩の島津家などが含まれました。

華族には様々な特権が与えられており、財産の差し押さえから保護され、子弟は学習院に無試験で入学できました。

しかし、戦争の敗北と共にGHQの占領下で日本国憲法が制定され、「法の下の平等」が掲げられ、1947年に華族制度は廃止されます。

その後、元華族たちは重税に苦しみ、財産を売り払って納税することを余儀なくされました。

柳原白蓮の儚い人生

大正10年(1921年)、白蓮は夫に対する絶縁状を新聞で発表し、世間を騒がせました。

大阪朝日新聞に、「愛なき結婚と夫の無理解が生んだ妻の苦悩と悲惨の告白」というタイトルの記事には、白蓮の苦悩が赤裸々に綴られていました。

あなたに永遠のお別れを告げます。私は、私の個性の自由と尊貴を守り培うために、あなたのもとを離れます。

その後、彼女は7歳下の宮崎龍介と駆け落ちします。

柳原白蓮(やなぎはら びゃくれん)、本名は柳原燁子(あきこ)、彼女は明治18年、華族の柳原前光伯爵と愛人の間に生まれました。

白蓮は、歌人としてはもちろん「大正三美人」としても名高い美貌の持ち主でした。

燁子は、生まれてすぐに正妻の娘として迎えられ、その後その後すぐに里子に出され、、明治27年(1894年)10歳の頃、遠縁の北小路家に養子に出されました。

14歳で学習院女学部に入学した燁子は、優れた学業成績を収めましたが、養父母の計画により16歳で北小路質武と結婚させられました。

間もなくして妊娠、出産、子育ては養父母に取り上げられ、暴力を振るう夫との間には愛情もなく、孤独な生活を強いられます。

結婚から5年後、燁子の訴えでようやく内情を知った柳原家と話し合いが持たれ、明治38年(1905年)ついに離婚が成立しました。

しかし、燁子は出戻りとして、柳原家の本邸へ入れてもらえず、隠居所で監督下に置かれ、門外へ出ることを許されませんでした。

そんな監視下の生活の中、唯一味方となってくれたのが、姉の信子です。

彼女の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、読書に明け暮れる日々が4年間続いたと言われている。

その後、姉の信子の尽力で、兄の義光夫妻の元に預けられることになりました。

明治41年(1908年)燁子が24歳の頃、兄嫁の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校に編入学し、寄宿舎生活を送り始める事となりました。

幸せな女学校生活で、後に翻訳者となり 「赤毛のアン」の翻訳でも知られる村岡花子とは、特に 親交を深め「腹心の友」となりました。

また、信子の紹介で短歌の「竹柏会」に入門し、短歌に情熱を注ぎ、歌人としての一歩を踏み出しました。

しかし、燁子の人生は再び波乱に満ちていました。

明治43年(1910年)26歳の燁子に、またもよきせぬ縁談が持ちかけられ、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚しました。

大富豪とはいえ、地方の一介の炭鉱主が、伯爵家から妻をもらうことは前代未聞です。

東京日々新聞では、2人の細かい経歴などを書いた記事などが掲載、「華族の令嬢が炭鉱王の妻に!」と、世間で大きく話題となりました。

しかし、伊藤伝右衛門の屋敷に入ってから、初めて知った伊東家の複雑な家族構成や派手な女性関係に悩まされることになります。

燁子はこの頃から、自分を慰めるかのように短歌に情熱を注ぎ始めました。

「竹柏会」の機関紙「心の花」に発表した短歌を見た師は、私生活を赤裸々に歌い上げた内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧めたのです。

これが、歌人・柳原白蓮の誕生です。

白蓮は夫を恐れ、気を遣う生活を送っていましたが、一方で歌人の久保猪之吉、その妻で俳人の久保より江と交流し、福岡社交界の華としても知られるようになりました。

大正4年(1915年)31歳の頃には、画家・竹久夢二が挿絵を手掛けた豪華な装丁の歌集「踏絵」を自費出版、大正6年(1917年)には、大阪朝日新聞で「筑紫の女王燁子」というタイトルの連載記事を載せ、大きな反響を呼びます。

大正9年(1920年)、36歳となった白蓮に運命の出会いが訪れます。

新たな書籍の出版が決まり、打ち合わせのために編集担当の宮崎龍介が白蓮の元を訪れたのが始まりでした。

龍介は彼女よりも7つ下の29歳、龍介は孫文を支援した宮崎滔天(とうてん)の長男で、東京帝国大学法科の3年に在籍しながら、新人会を結成し、労働運動に打ち込んでいました。

やがて、仕事の連絡の中に、少しずつ恋文めいた言葉が混じるようになり、白蓮が上京するタイミングで、密かに会うことを重ねるようになったのです。

しかし、大正10年(1921年)2人の関係は噂となって広まり、龍介は解任、新人会からも除名されてしまいます。

龍介は、新人会時代の新聞記者の仲間に相談して、駆け落ちの計画を練り決行に移します。

これが、大阪朝日新聞に掲載された絶縁状の全貌です。

白蓮は、経済的には非常に苦しい時もありましたが、幸せな生活の中、平和活動にも力を注ぎました。

歌を詠み穏やかな晩年でしたが、昭和42年(1967年)81歳でその生涯に幕を下ろしました。

まとめ

柳原白蓮の人生は華族の特権と制約の狭間で揺れ動き、愛と自由を求め続けた波乱万丈なものでした。

族令嬢の儚い人生に触れることで、歴史の一端を感じられますね。

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