2006年に公開された映画『硫黄島からの手紙』、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍に対し、地下壕に立てこもって抵抗する日本兵たちの姿は、多くの観客に衝撃を与えました。
しかし、あまり知られていないもう一つの悲劇、戦争によって故郷を追われ、80年以上が経過した現在も帰ることができない人々、映画だけでは見えてこない硫黄島の真実を振り返ります。
日本兵2万人を待ち受けた過酷な戦場
1945年2月19日、アメリカ軍が硫黄島に上陸し、太平洋戦争屈指の激戦が始まりました。
日本軍を指揮した栗林忠道中将は、圧倒的な戦力差を理解したうえで、島全体に地下陣地を築いて持久戦を展開しました。
地下道は約27kmが計画され、アメリカ軍の記録では約18kmが完成していたとされています。
しかし、その建設は想像を絶するもので、火山島である硫黄島の地下は場所によって49℃にも達し、有毒ガスが発生するため、兵士たちはガスマスクを着用して数分間ずつ作業を繰り返したといいます。
さらに深刻だったのが水不足で、島には川も井戸もなく、飲み水は雨水に頼るしかありませんでした。
それでも日本軍は36日間にわたって抵抗を続けますが、負傷者を後方へ搬送できたアメリカ軍とは異なり、日本軍では十分な治療を受けられず命を落とす兵士も多かったのです。
島に残された103人…映画では描かれなかった住民の悲劇
硫黄島はに、戦前約1,000人の住民が暮らし、サトウキビ栽培や硫黄の採掘、家畜の飼育などを営んでいました。
ところが1944年、戦況の悪化によって島民の強制疎開が始まり、女性や子ども、高齢者の多くが本土へ移される一方、働き盛りの男性などは軍の施設建設や作業に従事するため島に残されました。
残留した島民の人数には記録によって違いがありますが、103人が残り、生還できたのはわずか10人だったとする記録があります。
彼らは自分たちが暮らしていた土地で戦争の準備を手伝い、やがて激しい戦闘に巻き込まれていったのです。
しかも、島を離れた人々が安全で幸せな生活を送れたわけでもなく、疎開先では住まいや仕事を失い、戦後も生活に苦しむ人が相次ぎました。
旧島民の団体の記録では、戦後8年間に399人が亡くなり、そのうち約4割は生活苦に関係する死だったとされています。
80年以上続く故郷喪失の悲劇
1968年、硫黄島はアメリカから日本へ返還されましたが、それは島民が故郷に戻れることを意味しませんでした。
島は自衛隊の基地として利用され、1984年には国の審議会が一般住民の定住は困難と判断、かつての島民やその子孫は、現在も自由に帰島して生活することができず、墓参などの限られた機会にしか島を訪れられません。
さらに、島には今なお多くの戦没者の遺骨が眠っています。
滑走路の下にも地下壕が残されており、遺骨収集は現在も続けられています。
映画で描かれた戦いは36日間、しかし島民にとって戦争がもたらした苦しみは、80年以上たった今も続いているのです。
硫黄島の歴史を振り返るとき、戦場で散った兵士だけでなく、戦争によって故郷を奪われた人々の存在も忘れてはならないでしょう。
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