江戸時代、加賀百万石(かがひゃくまんごく)と呼ばれ圧倒的な経済力を誇った加賀藩、実際の石高は最大119万5000石に達し、幕末でも国持大名トップの規模を誇りました。
しかし、薩摩藩や長州藩が明治維新の主役となった一方、多くの石高を持つ加賀藩の名前は意外なほど目立ちません。
なぜ日本最大の外様大名は歴史の表舞台に立てなかったのでしょうか。
日本一の外様大名、幕府に警戒され「鼻毛」で生き残る
加賀藩の基礎を築いた前田利家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、豊臣政権では五大老にまで上り詰めました。
利家の死後、2代利長は関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍側につき、加賀・能登・越中にまたがる約120万石の大大名となります。
しかし、あまりにも巨大だったことが、前田家最大の弱点でもありました。
徳川幕府にとって、100万石を超える外様大名は無視できない存在であり、前田利家の死後に利長へ謀反の疑いをかけられた「慶長の危機」、1631年に金沢城の無断修築などから再び謀反を疑われた「寛永の危機」と、二度も存亡の危機を経験しています。
そこで前田家は徳川家との対立ではなく、徹底した融和を選択、3代利常には2代将軍・徳川秀忠の娘である珠姫が嫁ぎ、その後も徳川家と深い姻戚関係を築きました。
外様でありながら松平姓や葵紋の使用を許されるなど、その家格は別格だったといいます。
さらに利常には、わざと鼻毛を伸ばして、うつけ者を演じたという有名な逸話があります。
巨大な加賀藩が幕府から危険視されないよう、「こんな愚かな殿様なら謀反など企てない」と思わせるためだったと伝えられています。
あくまで逸話ですが、強大な力を持ちながら、あえて野心を見せない前田家の処世術を象徴するエピソードといえるでしょう。
目立たない戦略が幕末では裏目に
加賀藩が力を注いだのは軍事や政治だけではありません。
利常は治水や農政など藩政を整備し、その政治は「政治は一加賀、二土佐」と称されたともいわれます。
5代綱紀の時代には学問や美術、工芸、能楽などを積極的に保護、新井白石から「加賀は天下の書府」と評されたほど文化が発展していました。
現在まで続く金沢の工芸文化の背景にも、こうした前田家の政策があります。
一方、江戸時代中期以降になると財政は徐々に悪化、財政改革も試みられましたが、家臣同士の対立や加賀騒動などもあり、十分な成果を残せませんでした。
そして、決定的だったのが幕末です。
薩摩や長州が倒幕へ動いていくなか、加賀藩は幕府にも西南雄藩にも深入りしない独自路線を模索、長年にわたって徳川家と深い関係を築いてきただけに、簡単に倒幕側へ転じることもできず、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府側への加勢を目指したものの、途中で敗北を知って引き返します。
その後は新政府側に立とうとしますが、徳川家との深い関係などから十分な信頼を得られず、薩摩や長州のように新時代の中心へ入ることはできませんでした。
皮肉にも、江戸時代を生き抜くために磨き上げた、幕府に警戒されず目立たないという戦略が、幕府が崩壊する時代には大きな足かせになってしまったのです。
まとめ
加賀藩が幕末に目立たなかったのは、決して力がなかったからではなく、徳川幕府に警戒されないことを最優先にして約260年間を生き抜いてきました。
その結果として金沢には豊かな文化が残りましたが、強すぎるからこそ目立たない道を選んだという矛盾こそ、加賀百万石の歴史を読み解く大きなポイントなのかもしれませんね。
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