現代では、不貞行為が「悪」とされていますが、昔の日本では「一夫多妻制」が存在していました。
では、その時代の浮気や不倫はどう扱われていたのでしょうか?
一夫多妻制が存在した日本の歴史
日本では、平安時代から江戸時代にかけて、一夫多妻制に類似した社会制度が存在していたのです。
平安貴族の間では、「正妻」と呼ばれる地位のある妻を持ちながら、その他に「妾」や「側室」と呼ばれる女性たちと関係を築くことが一般的でした。
この形態は、特に上流階級において家の繁栄や後継者確保の手段だったのです。
たとえば、平安時代の貴族たちは、複数の女性を囲うことが「ステータス」とされており『源氏物語』のような文学作品にもその文化が反映されています。
その後、江戸時代に入ると、武士階級では正妻と側室を持つことが家の繁栄のために重要とされましたが、町人階級などでは経済的な制約から、複数の妻を持つことは一般的ではありませんでした。
家制度が重んじられる時代背景の中で、一夫多妻的な形態は一部の階級にのみ限定されていたのです。
しかし、明治時代に入り、西洋化と近代化の波により、日本の婚姻制度は大きく変化。
1898年に施行された民法によって、一夫一妻制が法的に定められました。
これにより、正式に認められる妻は一人だけとなり、側室や妾といった制度は廃止されたのです。
この背景には、国際社会で「近代国家」として認められるために、欧米の基準に倣う必要があったことが挙げられます。
また、ジェンダー平等の意識は当時まだ低かったものの、女性の権利に関する議論も始まりつつありました。
一夫多妻制の時代にも浮気や不倫はあったのか?
一夫多妻制の時代であっても、「浮気」や「不倫」に該当する不貞行為は存在しました。
ただし、制度として男性が複数の妻や側室を持つことが認められていたため、男性の行為が問題視されることはほとんどありません。
一方、女性が夫以外の男性と関係を持つことは「姦通」とされ、重罪として扱われることが一般的でした。
女性が不貞行為を行った場合、場合によっては死罪や追放といった厳しい罰を受け、特に武士階級では「家の名誉を傷つける行為」として、夫や家族が制裁を加えることが許容されていたのです。
また、関係を持った男性も処罰される場合がありましたが、女性と比べて軽い処罰で済まされることが多かったようです。
一夫一妻制が定着するにつれ、不貞行為に対する社会的な認識も変化していきます。
明治以降、男女双方の不倫や浮気が問題視されるようになったが、特に戦前の日本では、男性の不倫は「甲斐性」として容認される傾向にありました。
この不均衡は、戦後の民法改正や男女平等意識の高まりによって徐々に解消されるようになりますが、現代でも完全に偏見が消えたとは言い難い状況です。
まとめ
日本の歴史を振り返ると、一夫多妻制の時代でも浮気や不倫に該当する行為は存在し、その扱いは男女で大きく異なっていました。
一夫多妻制が廃止され、法的には平等な一夫一妻制が定められたものの、社会的な意識や不倫への偏見は現代に至るまで影響を及ぼしています。
こうした歴史的背景を知ることで、不倫や浮気に対する考え方に新たな視点を持てるのではないでしょうか?
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)