実は明治時代末期、政府が本気で日本の府県を統廃合しようとしていた「28道府県構想(府県廃置法律案)」が存在していたのです。
あなたのふるさとも、地図上から消えていたかもしれません…この幻の計画、詳しく知るとゾッとするほど綿密に練られていました。
府県を19も減らす大改革があった!

1903年(明治36年)、当時の内務省がまとめた「府県廃置法律案」。これは日本を現在の47都道府県ではなく、28の道府県にまで再編するという計画でした。
近代国家としての行政効率化や財政の健全化を理由に、「交通網の発達に合わせて、より広域の自治体を作ろう」という発想から生まれた構想です。
この法案が成立していれば、19の県が完全に姿を消す予定でした。
消滅予定だったのは以下の通りです。
岩手、山形、群馬、茨城、埼玉、山梨、富山、福井、岐阜、静岡、滋賀、奈良、和歌山、鳥取、山口、徳島、佐賀、大分、宮崎
また、宮城県が「仙台県」に、愛知県が「名古屋県」にといったように、名前が変わる県もありました。
これらの変更は単なる改称ではなく、その地域の中核都市への権限集中と再配置という意図があったようです。
どのように統合される予定だったのか?
この再編案は、単に「小さい県を大きな県に吸収する」という雑な構想ではありません。
内務省は各地域の地理的・経済的・交通的・歴史的背景まで考慮して、実に綿密な設計をしていました。
例を挙げると、
- 東京府+埼玉県+山梨県 → 新・東京府
- 大阪府+奈良県+和歌山県(大半)+兵庫県東端 → 新・大阪府
- 愛知県+岐阜県(南部)+静岡県西部 → 名古屋県
- 香川県+徳島県 → 高松県
- 鹿児島県+宮崎県 → 鹿児島県(名称据え置き)
といった具合です。
実際には、新設された県とされていたものの、実態としては、東京や大阪などの都市圏が周辺を吸収する形式になっていました。
つまり、多くの県が「格下」として組み込まれるような構図だったのです。
なぜ消滅しなかったのか?
当時、法案はすでに1904年4月施行予定とされ、閣議決定まで進んでいました。
しかし、これに猛反発したのが廃止予定となった県の人々です。
和歌山県や山形県などでは、市長や商工会議所、新聞、代議士が連携して「県の消滅を阻止しよう」と立ち上がり、運動は全国に波及していきました。
特に和歌山市では、「大阪に編入されれば県庁が遠くなり、経済的損失も甚大になる」として、自治やアイデンティティを守る激しい声があがったのです。
さらに、事態を大きく変えたのが1904年2月に起こった日露戦争の勃発でした。
政局の混乱と軍事優先のため、府県統合法案は議会に提出されることなく、事実上「幻の構想」となったのです。
まとめ
明治時代に描かれた「28道府県構想」は、ただの行政効率化ではなく、地域アイデンティティや住民の声が国の形を左右した貴重な例です。
この構想が消滅したことで、現在の47都道府県が定着しましたが、地域のあり方とは政治的思惑だけで決められるものではないという教訓を残しています。
近年では「道州制」や「市町村合併」などが再び話題になりますが、そのたびに思い出すべきは、私たち一人ひとりのふるさとの価値と、そこに住む人々の声なのです。
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