1938年、岡山の静かな山村で起きた「津山事件」、たったひとりの青年が、深夜の闇に紛れて集落を襲撃し、30人もの命を奪ったのです。
大量殺人という事実の裏には、彼の孤独な生い立ちと過酷な村社会の現実がありました。
今なお語り継がれるこの実話…都井睦雄(といむつお)という青年とは…?
孤独と偏見に囲まれた優等生

1938年5月、岡山県津山市加茂町貝尾で起きた「津山事件」は、たった一人の青年が30人を殺害するという、日本犯罪史上でも特筆すべき大量殺人事件です。
犯人は22歳の「都井睦雄」、彼はもともと成績優秀で地元の期待を集める秀才でした。
しかし幼い頃に両親を結核で亡くし、育ての祖母と姉の3人暮らしが始まります。
やがて自らも結核を患い、徴兵検査では丙種合格という実質的に不合格とされました。
戦時中の「兵役に就けない男は役立たず」という風潮の中で、村全体から冷たい視線を浴びるようになっていきます。
加えて、かつて親しくしていた女性たちからも避けられ、悪口を言われる日々が続きます。
唯一の心の拠り所だった姉も嫁ぎ、祖母からの厳しい束縛と生活の窮屈さが重なり、睦雄は次第に社会的・精神的に追い詰められていきました。
性的風習と社会の矛盾
睦雄が生きていた村では、夜這いや博打に妻を差し出す文化など、現代からは想像しがたい性的に開放的な風習が残っていました。
睦雄は、そうした風習の中で複数の女性と関係を持つ一方、次第に金銭で女性を引き止めようとするようになっていきます。
やがて、睦雄が結核患者であるという噂が広まると、女性たちは態度を急変、露骨に彼を避けたり陰で中傷したりするようになりました。
中には、睦雄が訪れると「ばあさんに言うぞ」と突き返す者もいました。
睦雄は女性たちとの関係の崩壊によって、人間不信と強い劣等感を抱くようになったのです。
こうした中、かつて好意を寄せていた女性・寺井ゆり子の帰省が、睦雄にとって復讐の引き金となります。
遺書には「今日決行しようと思ったのは、彼女が帰ってきたから」と記されていました。
心の奥底で、自分を拒絶した村そのものに怒りを燃やしていたのです。
犯行計画と祖母殺害の意味
犯行は極めて計画的でした。
事前に送電線を切断して集落を停電状態にし、深夜1時40分ごろから軍服風の服装で行動を開始します。
武器は猟銃、日本刀、斧でした。
睦雄は事前に恨みを抱いた家をリストアップし、順番に襲っていきます。
最初に手にかけたのは、育ての祖母・いねでした。
斧で何度も首を切りつけ、絶命させたのです。
なぜ最初に、なぜ斧で殺したのか?そこには深い心理的背景があります。
いねは、育ての恩人であると同時に「自分を縛る存在」でもあった。
彼女の存在に対する恐怖や屈服感が、最初に殺す相手として選ばせたのでしょう。
斧を選んだ理由も、「確実に殺すため」「音を立てずに仕留めるため」だったと分析されています。
その後、睦雄は家々を襲撃し、関係のあった女性や悪口を言った人物を中心に30人を殺害しました。
見逃された村人もいたことから、無差別ではなく、選別された復讐だったことがわかります。
自殺と遺書に残された本心
犯行を終えた睦雄は山中の荒坂峠に向かい、銃で心臓を撃ち抜き自殺しました。
遺書には祖母や姉への謝罪、そして村人たちへの恨みが混在していました。
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする。)
この遺書からは、冷酷さの奥にある絶望と、人間の叫びが見て取れます。
その後、姉やゆり子ら関係者は、事件後も「共犯」「元恋人」などと噂され、長く差別と中傷を受けました。
被害者遺族ですら地域社会から追い出されるような現実が、この事件の深さと闇を物語っています。
まとめ
津山事件は間違いなく史上最悪の大量殺人事件ですが、都井睦雄という人物を「ただの殺人鬼」と断じて終わるのは、あまりにも表層的ではないでしょうか。
彼の犯行は、村社会の排除、差別、孤独、そして人間の心の限界が交差した末の悲劇でした。
私たちはこの事件から、「人はなぜそこまで追い詰められるのか」「社会が人を殺すとはどういうことか」を深く考えなければなりません。
そして、歴史に埋もれつつあるこの事件を、現代にこそ通じる警鐘として語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
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