明治維新を支え、日本を近代国家へと導いた明治天皇、その実在に関して一部で囁かれ続ける「すり替え説」をご存じでしょうか?
即位前と後で顔や性格がまったく違う、体格や利き手が変わったなど、まるで都市伝説のに言われています。
本当にすり替えはあったのか?今回はこの謎に包まれた説を紐解いていきます。
明治天皇とは何者だったのか?

明治天皇は1852年、孝明天皇と中山慶子の間に生まれ、幼名は祐宮(さちのみや)、幼少期は病弱で内気な性格とされていました。
1867年に父・孝明天皇が死去し16歳で即位、日本は急速な近代化の波に飲み込まれ、明治天皇はその象徴的存在として五箇条の御誓文、廃藩置県、帝国憲法の制定などを見届けました。
天皇は国内各地への巡幸や外国の賓客と謁見を行うなど、歴代天皇にはなかった外交的かつ象徴的な振る舞いを自ら行います。
その一方、贅沢を嫌い私生活では倹約を徹底、古い靴を履き続けたり、三越の空き箱を使ったりと意外な庶民派の一面も記録されています。
なぜすり替え説が浮上したのか?
この「すり替え説」が浮上した発端は、父・孝明天皇の突然の死にあるとされています。
彼は倒幕に慎重で開国にも否定的、いわば保守派の象徴でした。
その孝明天皇が1867年、天然痘とされる病で急死、当初は回復の兆しがあったにもかかわらず、急変して亡くなったことから、毒殺の疑いが持たれるようになりました。
その直後に天皇となった祐宮も、即位前後で体格・性格・筆跡・利き手まで変わったとされ、実は彼も暗殺され別人が天皇になったのではないか?という説が語られるようになったのです。
このような状況の中、すり替えられたとされる人物が浮上します。
それが「大室寅之祐」、長州出身で南朝(後醍醐天皇系)の血を引くとされるこの少年が、倒幕・王政復古を推し進めた薩長勢力にとって、都合のよい象徴だったというわけです。
主張される根拠の正体

この説を支持する人々が挙げる主な証拠は以下のようなものです。
- 顔・体格の違い|即位前の祐宮は小柄で右利き、内向的だったのに対し、即位後の明治天皇はがっしりした体格で左利き、剣術や馬術を好む体育会系。
- 筆跡の変化|字の上手さが極端に向上したとされ、「まるで別人」と言われる。
- 思想の急変|南朝を正当とする発言や、楠木正成を神格化するなど、南朝寄りの姿勢が目立つようになった。
- フルベッキ写真|オランダ人教師フルベッキと日本人青年たちが写った集合写真に、明治天皇そっくりの人物がいるとされる。
また、元号「明治」がくじ引きで決められたという話もこの説と結びつけられます。
古代では神意を仰ぐためにくじが用いられたため、「すり替えを正当化するための神事だったのではないか」という解釈も存在します。
しかしこれらの根拠の多くは、現代の研究では否定または誤認とされています。
たとえば、体格の違いは成長期の変化や鍛錬によるものであり、利き手に関しても両手使いができるように訓練された可能性が高いとされます。
また、フルベッキ写真の人物は佐賀藩の学生であり撮影地も長崎、すでに即位していた天皇がそこにいたとは考えにくいのです。
なぜこの説が支持され続けるのか?
一見すれば都市伝説の域を出ないようなこの説が、現在でも語られ続ける背景には、日本の歴史における「天皇」という存在の特異性があります。
まず、天皇は「象徴」でありながら私生活がほとんど見えない存在であること、その神秘性は多くの想像や疑念を呼びやすいのです。
また、明治維新という大変革の過程で、都合のよい変化が次々と起こったことも、この説を補強する材料になっています。
孝明天皇の急死、新天皇の即位、幕府の崩壊、そして一気に西洋化へ進む国家運営、まるで筋書きがあったかのような流れが陰謀論を誘発しているのです。
さらに戦後になって皇室批判がタブーではなくなったことで、すり替え説を語る土壌が形成されたという側面もあります。
まとめ
明治天皇のすり替え説は、現在の歴史学において事実として認定されているわけではありません。
むしろ、証拠とされる多くの内容には矛盾や誤認があり、信憑性はきわめて低いとされています。
とはいえ、この説が今なお一定の注目を集める理由は、「歴史とは常に勝者によって描かれる」という視点や、急激な体制転換に対する人々の心理を反映しているからでしょう。
すり替え説を一笑に付すのではなく、その背後にある社会の不安や権力の在り方に目を向けること、それこそがこの説が私たちに問いかける本質なのかもしれません。
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