農民ら3万7000人を待っていた悲惨な末路「島原・天草一揆」最後に待っていた壮絶な結末とは?

農民ら3万7000人を待っていた悲惨な末路「島原・天草一揆」最後に待っていた壮絶な結末とは?

江戸時代初期、幕府を震撼させる大規模な反乱「島原・天草一揆」、天草四郎を中心に原城へ集まった人数は約3万7000人、しかし彼らを待っていたのは勝利ではなく、飢えに苦しんだ末にほぼ全滅するというあまりにも悲惨な結末、なぜこれほど多くの人々が命を懸けて立ち上がり、逃げ場のない原城で最期を迎えることになったのでしょうか。

スポンサーリンク

重税と弾圧に追い詰められた人々…約3万7000人が原城へ

1637年に始まった島原・天草一揆の背景には、長年にわたって積み重なっていた領民たちの苦しみがありました。

当時の島原を治めていた松倉氏は、石高に見合わない大規模な島原城を築くなど多額の費用を必要とし、その負担を厳しい徴税という形で領民に求めていきます。

さらに凶作や飢饉によって人々の生活が苦しくなっても取り立ては続き、年貢を納められない者には過酷な処罰が行われたと伝えられています。

そこへ追い打ちをかけたのがキリスト教への弾圧、もともと島原や天草にはキリスト教を信仰する人々が多く暮らしていましたが、幕府が禁教政策を強めるにつれて取り締まりは激しくなり、生活だけでなく信仰まで奪われようとした領民たちの不満は限界へ近づいていたのです。

そして1637年、それまで抑え込まれていた怒りがついに爆発し、その象徴として担ぎ上げられたのが、当時16歳前後だったとされる天草四郎です。

一揆勢には農民だけではなく漁民や商人、さらに旧有馬氏や小西氏に仕え、戦いの経験を持つ浪人たちも加わっていたため、領主側が想像していた以上に組織的な軍勢へと成長していきます。

島原や天草で領主側の部隊を苦しめた一揆勢は、やがて廃城となっていた原城へ集結、その数は女性や子どもを含め約3万7000人に達したとされています。

一揆勢は原城を修復し、奪った鉄砲や弾薬、食料を持ち込んで籠城を開始すると、九州各地から集められた幕府軍の攻撃を何度も撃退しました。

しかし、このとき彼らを守っていた3万7000人という大集団は、籠城が長期化するにつれて、逆に自分たちを追い詰める大きな要因となっていったのです。

飢えながら迎えた最後の総攻撃…待っていた悲惨な末路

幕府軍は当初、数で勝る兵力を生かして原城を攻め落とそうとしましたが、一揆勢の鉄砲攻撃や原城の地形に阻まれて思うように進めず、ついには指揮官の板倉重昌まで戦死しました。

そこで新たに指揮を執った老中・松平信綱は、兵士を次々と突入させる戦い方をやめ、原城を完全に包囲して食料と弾薬が尽きるのを待つ兵糧攻めへと方針を変えます。

籠城が長引くにつれて備蓄は底をつき、幕府側が城外で倒れた一揆勢の遺体を調べたところ、胃の中には海藻程度しか残っていなかったという逸話が伝わるほど、城内は深刻な飢餓状態へ追い込まれていきました。

そして1638年、食料だけでなく弾薬も尽きかけた原城に幕府軍が総攻撃を開始、一揆勢は最後まで抵抗したものの、飢えによって弱り切った状態では圧倒的な兵力差を覆すことはできず、ついに原城は陥落、天草四郎も命を落とし、城内にいた人々のほとんどが殺害されたとされています。

一揆勢の中で生き残った人物として知られているのは、幕府側へ内通していた山田右衛門作です。

一方、これほどの惨事を招いた責任は領民だけに押し付けられたわけではなく、幕府は島原藩主・松倉勝家の統治にも重大な問題があったとして改易し、大名としては極めて異例となる斬首に処しました。

幕府にとっても、約3万7000人が城に立てこもり、大軍を投入しなければ鎮圧できなかった事態は、それだけ領国支配が破綻していたことを示す深刻な事件だったのです。

島原・天草一揆は「農民が幕府に反乱を起こした事件」という一言では語れない、逃げ場を失った多くの人々が犠牲となった江戸時代初期の悲劇だったのです。

あわせて読みたい|マタイク(mataiku)

農民ら3万7000人を待っていた悲惨な末路「島原・天草一揆」最後に待っていた壮絶な結末とは?
最新情報をチェックしよう!