第二次世界大戦中、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人難民に「命のビザ」を発給した外交官・杉原千畝、その名前を知る人は多い一方で、彼の決断を最も近くで支えた妻・杉原幸子については、あまり知られていないかもしれません。
彼女は夫を支えただけでなく、戦後は歴史の証言者として当時の出来事を語り続けました。
今回は、もう一人の重要な語り手、杉原幸子の生涯と功績を振り返ります。
杉原幸子は夫・杉原千畝の歴史的な決断を支えた
1913年に生まれた杉原幸子は、外交官・杉原千畝の妻として、夫の海外赴任に同行しました。
1940年、一家が暮らしていたリトアニアのカウナスには、ナチス・ドイツなどの迫害から逃れてきた多くのユダヤ系難民が集まっていました。
彼らが生き延びるために必要としていたのが、日本を通過して第三国へ向かうためのビザでした。
しかし、日本政府は一定の条件を満たす者にのみビザを発給するよう求めており、杉原千畝は外交官としての立場と目の前の命との間で苦悩します。
杉原が何度問い合わせても外務省からの答えは「ビザは発給するな」でした。
目の前の命を見捨てるのか…妻・幸子は、目の前の人々を見捨てられないという夫の考えを支持、杉原はその後、連日のようにビザを書き続けました。
この行動は、規則違反どころか、キャリアを失うリスクすらあるものでした。
杉原は食事も忘れるほど作業に没頭し、腕が腫れ上がるほどだったといいます。
幸子はそんな夫の腕をマッサージするなど、すぐそばで支え続けました。
杉原のビザによって救われた人は、家族を含め一般に約6000人ともいわれています。
歴史的な決断を実行したのは千畝でしたが、その背後には家族として同じリスクを背負い、決断を支持した幸子の存在があったのです。
偉人の妻で終わらなかった…記憶を次世代へ
現在では世界的に知られる「命のビザ」ですが、杉原千畝の行動が日本で広く知られるまでに、実は長い年月がかかりました。
杉原が1986年に亡くなった後も、幸子は当時を知る証言者として講演などを通じて、その経験を伝え続けます。
1989年には『六千人の命のビザ』を出版、外交記録だけでは見えてこない、ビザ発給をめぐる夫の葛藤や領事館での出来事、家族が経験した日々を後世に残しました。
幸子自身がビザを発給したわけではありませんが、夫の決断を支え、戦後には歴史を知る人として語り続けたこそ、彼女は単なる偉人の妻ではなく、歴史の記憶を未来へつないだ女性として見ることができるのです。
彼女が残した証言は今も若い世代へ受け継がれています。
歴史を動かした人だけでなく、その決断を支え、記憶を残した人の存在にも目を向けることの大切さを、杉原幸子の生涯は教えてくれます。
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