食料は敵から奪えばいい、そんな発想すら作戦を支える前提の一つになったとされる、あまりにも危険な戦い「インパール作戦」です。
1944年、日本軍が英領インド北東部のインパール攻略を目指し、険しい山岳地帯、ほとんど存在しない補給路、迫る雨季、そして制空権を握り、航空機で大量の物資を送り込む連合軍、その結果、約10万人の参加兵力のうち約3万人が戦死、約4万人が戦傷病者となる壊滅的な損害を受けたとされています。
インパール作戦、無謀な戦い
ここまで無謀な作戦は、なぜ止められなかったのでしょうか…。
1944年3月、日本軍はビルマ(現在のミャンマー)から国境を越え、英領インドの要衝インパールを攻略する「ウ号作戦」、いわゆるインパール作戦を開始、その中心にいた人物が、第15軍司令官・牟田口廉也中将でした。
狙いの一つは、連合軍の反攻拠点を叩き、中国への支援ルートにも打撃を与えること、さらにインド国民軍と連携し、英国によるインド支配を揺さぶる政治的な思惑もありました。
作戦にはスバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍約6000人も参加したとされています。
最大の問題は、日本軍の前に立ちはだかるチンドウィン川と険しい山岳地帯、道路事情は劣悪、大量のトラックを走らせられる補給路も乏しく、兵士たちは食料、弾薬、装備を背負って山を越えなければなりません。
戦争では前線の兵力だけでなく、その兵士に毎日どうやって食料と弾薬を届けるかが勝敗を決めます。
ところがインパール作戦では、この生命線があまりにも脆弱でした。
そこで考えられたのが、牛などの家畜を連れて山岳地帯を進み、輸送力として使いながら最終的には食料にもするという、いわゆる「ジンギスカン作戦」、発想だけなら合理的に聞こえるかもしれませんが、現実のジャングルと山岳地帯は甘くありません。
そもそも数万人規模の軍隊が何週間、何カ月も戦い続けるための補給を、家畜頼みで成立させることには限界があります。
第31師団の兵士は食料20日分、小銃弾240発など約40キロもの荷物を背負い、標高3000メートル級の山岳地帯を踏破、4月6日にはコヒマへ到達しました。
地獄へのカウントダウン
第31師団には作戦開始後、十分な食料・弾薬の補給が届かず、一方の英印軍には増援が次々と到着しました。
日本軍が想定していた短期決戦は崩壊、「これ以上やれば全滅する」それでも上級司令部からは攻撃継続を求める、第31師団長の佐藤幸徳中将は「このままでは自滅を待つのみ」と判断し、部隊を生き残らせるため、ついに軍司令部の意向に反してコヒマ方面から撤退します。
さらに日本軍を襲ったのが、インド・ビルマ国境地帯の雨季で、ただでさえ破綻していた補給はさらに困難になり、兵士たちは食料不足だけでなく、マラリアや赤痢などの病気にも苦しめられ、飢え、病気、疲労、そして補給の崩壊そのものが兵士の命を奪っていったのです。
やがて作戦は中止され、日本軍はビルマ方面への撤退を開始しますが、ここからがさらなる地獄でした。
食べ物がない、薬もない、歩く体力さえ残っていない、ジャングルの道端では、力尽きた兵士が次々と倒れていったと伝えられています。
その凄惨な退却路は後に、「白骨街道」と呼ばれるようになります。
約10万人の作戦参加兵力に対し、戦死者約3万人、戦傷病者約4万人、日本軍にとって壊滅的な敗北でした。
作戦失敗後には参加した3個師団の師団長全員が罷免(ひめん)されることになります。
牟田口廉也は本当に「無能」だったのか?
インパール作戦を語る際、牟田口廉也はしばしば「愚将」「無能」の象徴として扱われます。
確かに、補給能力を超えた攻勢を強く推進し、状況が悪化してからも作戦継続に固執した責任は極めて重いでしょう。
しかし、作戦は第15軍だけで完結したものではなく、上級司令部による検討と承認を経て実施されるもの。すべてを「牟田口一人が無能だった」で片付けてしまうと、この悲劇の本質を見失います。
つまり恐ろしいのは、止めるべき人間が何人もいたのに組織として止められなかったことです。
その代償を払ったのは、作戦を立案した司令部ではなく、最前線で飢えながら歩き続けた兵士たち、その判断の代償として、あまりにも多くの命がジャングルに消えていったことなのです。
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