男なら間違いなく天下人だった!?日本史上最強の『女武将』2選

女武将

歴史に名を刻む名将たちは、ほとんどが男性ですが、「男だったら間違いなく天下統一していた」と噂されるほどの女武将が、日本の歴史にも確かに存在していました。

今回はその中でも「最強」と称される、2人の女武者を紹介します。

美貌と武勇を兼ね備え、時に男たちを凌駕するほどの強さを見せつけた彼女たちの生き様とは?

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巴御前

巴御前
画像はイメージです。

巴御前は、平安時代末期の源平合戦に登場した女武者です。

『平家物語』によれば、彼女は木曽義仲(源義仲)の側近、あるいは側室として行動を共にし、その勇ましさは男顔負けだったと記されています。

物語の中で描かれる巴御前は、色白で髪が長く、美貌の持ち主でありながら、馬上から大太刀を振るい、強弓を引いて戦う女武者でした。

敵を前にしても一歩も引かず、まるで鬼神のように立ち向かったとされています。

その名が最も輝くのが、1184年の「粟津の戦い」、木曽義仲が敗走する中、彼女はわずか五騎まで減った義仲軍に最後まで残り、義仲から「女が一緒では恥になる。去れ」と命じられます。

そこで巴御前は「ならば最後の奉公を果たしたい」と言い残し、敵将・恩田八郎諸重に単騎で突撃、馬から引きずり下ろして首をねじ切ったという、壮絶なエピソードが語り継がれています。

戦後の彼女の行方については諸説あり、和田義盛の妻になった、尼となった、消息不明になったなど、真相は明らかではありません。

ただひとつ確かなのは、彼女が戦える女であったということ。

敵味方すべての目にその存在を焼きつけたであろう、まさに日本最古の女武将のひとりです。

甲斐姫

甲斐姫
画像はイメージです。

戦国時代末期、豊臣秀吉が関東を平定するため北条氏を攻めた「小田原征伐」。

その支城のひとつ、武蔵国の忍城(現在の埼玉県行田市)で、歴史に残る籠城戦が繰り広げられました。

その中心にいたのが、甲斐姫です。

成田氏長の娘として生まれた甲斐姫は、母を早くに亡くし、義母のもとで育てられますが、成田家に男子がいなかったことから、男子のように武芸・戦術・兵法の教育を受けて育てられます。

美貌だけでなく頭脳も武力も兼ね備えた彼女は、東国無双の美女と称されるまでに成長します。

1590年、石田三成が率いる2万を超える大軍が忍城を包囲、三成は堤防を築いて水攻めにするという策を講じました。

しかし甲斐姫は、泳ぎの達人を使って堤に穴を開け、逆に石田軍を水浸しにさせるという奇策で応戦、三成の面目は丸つぶれとなり、水攻めは失敗に終わります。

それでも攻撃を続ける三成軍、劣勢となった忍城では、ついに城門の一つが突破されます。

このとき、甲斐姫は甲冑に身を包み、成田家伝来の名刀を握り、200人の手勢を率いて正面から出撃、その凛とした姿に味方の士気は高まり、敵軍は一時撤退を余儀なくされたと言われています。

戦後、甲斐姫はその活躍を秀吉に認められ、側室として大坂城に迎えられたという伝承があります。

その後の動向は定かではないものの、秀吉の娘の養育係を務め、大坂の陣ではその娘と共に鎌倉の東慶寺に逃れたという話も残ります。

現在、東慶寺の近くには甲斐姫の墓と伝わる塔があり、静かに彼女の人生を物語っています。

まとめ

巴御前と甲斐姫、彼女たちは時代に翻弄されながらも、自らの信念と武勇で歴史に名を残しました。

その存在は、男中心の戦国・武家社会にあってきわめて異質であり、だからこそ後世に強烈な印象を残したのです。

もし、彼女たちが男だったなら、武将として勢力を拡大し、天下統一の可能性すらあったかもしれません。

戦場で、忠義を尽くし、国を守り、命を懸けて戦ったその姿は、現代にも多くの示唆を与えてくれますね。

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