日本史上最強の武士軍団『鎌倉武士団』最強モンゴル軍を撃退!その強さがチート級すぎた

日本史上最強の武士軍団『鎌倉武士団』最強モンゴル軍を撃退!その強さがチート級すぎた

かつてユーラシア大陸の大半を征服し、「世界最強」と謳われたモンゴル帝国、その巨大な軍事力を日本の武士たちが二度にわたり撃退した事実をご存知ですか?

その立役者が鎌倉時代の御家人たち、すなわち「鎌倉武士団」、実は圧倒的な忠誠心と戦術、そして異常なまでの戦意が日本を守り抜いたのです。

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鎌倉武士団の実像

鎌倉武士団の実像
画像はイメージです。

鎌倉武士団とは、源頼朝によって創設された鎌倉幕府のもとに集った「御家人」たちが、戦時に動員された武士階級の軍事集団を指します。

彼らの存在は、単なる兵士ではなく土地を与えられた代償として命を賭けて戦う「主君の私兵」に近い形でした。

御家人制度のもとで育った彼らは、日常的に乗馬、弓術、剣術、戦場での心得を磨き、幼少期から「戦で武功を立てて名を挙げる」ことを最大の価値とする教育を受けてきました。

そのため、戦場に出ることは生活の糧ではなく、家名を上げる絶好の機会であり戦死すら誉れだったのです。

さらに、彼らの戦い方は極めて原始的かつ熾烈でした。

敵将の首を取ることで武勲と認定される「首級制」は、死体を持ち帰るまでが任務であり、そのための一騎打ち、突撃、夜襲、すべてが日常茶飯事でした。

敵に仲間の首を奪われたら奪還するまで引き下がらない、この「首への執念」は、敵国モンゴルから見ても異常だったとされ、「狂戦士(バーサーカー)」と恐れられた要因の一つです。

また、彼らの持つ武具も当時の東アジアでは先進的でした。

特に和弓の破壊力は抜群で、盾を貫通し、敵の鎧を無視して急所を射抜く性能を持ち、実際に「蒙古襲来絵詞」にはその場面が克明に描かれています。

忠誠・武力・精神力、どれをとっても、彼らは武士の原型にして究極系だったのです。

文永の役、世界帝国との最初の遭遇戦で見せた実力

1274年、元(モンゴル帝国)の皇帝フビライ・ハーンは、日本が国書への返答を拒否したことに業を煮やし、高麗と連合軍を組んで九州へ侵攻、約2万5千の兵士を900隻に乗せ、対馬・壱岐を蹂躙して博多湾へと押し寄せました。

当初、日本側の準備は万全ではありませんでしたが、幕府は侵攻の兆候を察知しており、少弐景資を総大将に、肥前・肥後・豊後・薩摩などから兵を結集、関東からも続々と御家人が駆けつけ、鎌倉武士団が急速に編成されていきました。

元軍は毒矢、短弓、火薬兵器「てつはう」、集団戦術という当時としては近代的な装備と戦法で攻めてきました。

特にてつはうは爆裂音と破片で敵を混乱させるため、騎馬戦主体の日本にとっては不利な要素でしたが、鎌倉武士団は持ち前の精神力と柔軟な戦術で対応します。

まずは陸上の狭い戦域に誘導し、白兵戦で個々の武芸を生かす近距離戦へと持ち込んだのです。

夜襲、伏兵、局地戦に持ち込むことで元軍の連携を崩し、少弐景資(しょうにかげすけ)の放った矢が元軍の副将を負傷させるなど、日本軍は着実にダメージを与えていきました。

そして運命の10月20日、突如として玄界灘に暴風雨が襲来、元軍は撤退を余儀なくされ、さらに多くの軍船が沈没、壱岐・対馬での非道な略奪行為の報いとも言える自然の猛威が、敗走を決定づけたのです。

だが決して、勝因はこの神風だけではありません。

事実として、日本軍は本土上陸を許しながらも一歩も大宰府には進ませず、防衛戦を制したという実績を残しました。

弘安の役、防塁×ゲリラ×精神力で完封した「世界史的勝利」

7年後の1281年、元(モンゴル帝国)はかつての敗北を雪辱すべく、はるかに大規模な軍を編成、南宋を滅ぼして得た人材・資源を注ぎ込み、東路軍(約4万)と江南軍(約10万)による世界最大級の遠征軍を日本に派遣します。

だがこの7年間、日本も手をこまねいていたわけではありません。

鎌倉幕府は九州に延長20km以上の「石築地」と呼ばれる防塁を築き、海からの侵攻を物理的に拒むという、先見的な沿岸防衛策を実施、御家人は交代制で現地に駐屯し、まさに日本総防衛戦の体制が整えられていました。

結果、元軍は博多湾に到達するも、まったく上陸の糸口がつかめず、防塁の外で停泊を余儀なくされます。

そこに夜襲・火計・奇襲の応酬、さらには、牛や馬の死体を投げ入れて疫病を誘発する「原始的バイオテロ」まで駆使し、元軍は次第に混乱と疲弊に陥ります。

東路軍は合流を待ち続けるも江南軍の到着は遅れ、その江南軍も航海で疲労困憊、ようやく合流を果たした頃には、すでに士気は地に落ちていました。

そして迎えた7月30日、またしても台風が元軍を直撃、戦意を失っていた元軍は壊滅状態に陥り、撤退を試みるも鷹島で鎌倉武士団の掃討戦を受けて完全崩壊します。

この戦いで生き残った兵の大半は捕虜に、その他は処刑されることとなりました。

この一連の戦役をもって、日本は「世界帝国の二度の侵略を完全撃退した国」として、歴史にその名を刻むことになります。

まとめ

鎌倉武士団は、決して訓練された職業軍人ではありません。

彼らは忠義と名誉のために戦う、武士の本懐を貫いた者たちでした。

その偉業は、単なる防衛成功ではなく、日本という国家と文化を存続させた分岐点であり、世界史的に見ても奇跡の戦勝と呼べるほどの意味を持ちます。

神風は確かに一因でしたが、決定打は彼らの「覚悟」です。

令和の今を生きる私たちにとっても、守るべきもののために立ち上がる勇気と備えの重要性を教えてくれる歴史の教訓と言えるでしょう。

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