戦国三大悪人と呼ばれた『松永久秀』は本当に悪人だったのか…実は濡れ衣だった説!?気になる真相

戦国三大悪人と呼ばれた『松永久秀』は本当に悪人だったのか…実は濡れ衣説!?気になる真相

戦国時代の極悪人と聞いて、誰を思い浮かべますか?

その名を挙げられることが多いのが、松永久秀(まつなが ひさひで)ではないでしょうか?

戦国三大悪人あるいは三大梟雄とも称され、将軍暗殺・寺院焼き討ち・主家乗っ取りという強烈なエピソードが語られてきました。

でも、実はそのイメージ、江戸時代以降につくられた物語かもしれません…。

最新の研究でわかってきた、久秀の意外な素顔と真相不明な悪行の数々を、わかりやすく紐解いてみましょう。

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信長や三好家に重用された多才な武将「松永久秀」の出世劇

松永久秀
Via|松永久秀像「高槻市立しろあと歴史館蔵」Wikipedia @wikipedia.org(公式より引用)

松永久秀は1508年、摂津国の土豪の家に生まれました。

同時代には斎藤道三や織田信秀といった下剋上を体現した人物がいますが、久秀もまたその代表格のひとりです。

20代後半ごろ、三好長慶に仕官し、その政治手腕や交渉力、さらには文化的素養まで買われて急速に出世します。

久秀が重宝されたのは、単なる軍事的才能だけではありません。

茶人としても名高く、「平蜘蛛」や「九十九髪茄子」といった名器を所有し、京や堺の文化人、公家、寺社、将軍家と広く交流を深めました。

彼は単なる武将ではなく、政治家であり文化人であり、時には外交官でもあったのです。

その実績から、信長も久秀に強い関心を持つようになります。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、久秀はこの行動に協力、人質と名器「九十九髪茄子」を差し出して信長との関係を築き、のちには軍事でも支援するようになります。

そんな久秀が、なぜ「裏切りの名手」や「爆死の悪人」と呼ばれるようになったのでしょうか?

松永久秀=悪人の理由になった三つのエピソード

彼が戦国三大悪人とされる理由は、以下の三点に集約されます。

① 三好義興の毒殺

久秀が悪人とされる要因のひとつが、「主家の嫡男・三好義興を毒殺した」という説です。

義興が若くして病死した1563年、久秀に対する妬みもあって毒殺疑惑が広まりました。

しかし現在までに毒殺を裏付ける一次資料は発見されておらず、むしろ久秀が義興の病状を案じ、三好家への忠誠を誓う書状が残っているほどです。

歴史書『足利季世記』や『続応仁後記』も、毒殺説を否定する記述を残しており、現代の研究者の間ではこの件を「根拠のない風聞」と見る向きが強まっています。

つまり、久秀が主家を裏切って乗っ取ったというのは、後世の創作や誤解にすぎない可能性が高いのです。

② 将軍・足利義輝の暗殺

二つ目の悪行とされるのが、1565年に起きた「永禄の変」での将軍・足利義輝の殺害事件。

事件の首謀者は、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と、久秀の嫡男・松永久通とされます。

当時の記録では、久秀本人は事件当日、京都には不在だったことが分かっており、直接的な関与は認められていません。

ただし、息子が関与していることから、事前に情報を知っていた、あるいは黙認していた可能性は否定できません。

さらに一説には、「三好・松永が義輝に意見を述べに行ったところ、武力衝突に発展した偶発的な事件」という見解も存在しています。

黒幕説もありますが、偶発的な衝突だった可能性もあり、久秀が直接関わっていたかは不明です。

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③ 東大寺大仏殿の焼き討ち

最後の悪行とされるのが、奈良・東大寺大仏殿の焼失です。

これは久秀と三好三人衆が対立し、戦闘に発展した「大仏殿の戦い」において発生した出来事ですが、焼き討ちの原因については複数の史料で諸説あります。

  • 『多聞院日記』では「倉からの飛び火」
  • 『足利季世記』では「むしろに火が燃え移った」
  • 『大和軍記』では「鉄砲の火が火薬に引火」
  • 『日本史』では「三好軍のキリシタン兵による放火」

いずれの記述も、火災が松永久秀による意図的な放火でない可能性を示唆しています。

現代では「戦闘中の偶発的な失火説」が有力で、久秀が意図的に国宝を焼き払ったとは言い切れません。

つまり、「三悪行」のどれもが事実としては疑問符がつくのです。

忠義者か?野心家か?評価が割れるその人物像

松永久秀は、確かに策士でした。

しかしその策は、自らの野望のためではなく、仕えた三好家を守るために使われていた面も見逃せません。

将軍殺害後も、久秀は義輝の弟・義昭を殺さず保護したり、信長の上洛を支援したりと、状況に応じて柔軟に動いています。

信長に対しても、名器を差し出して同盟を結びながら、その後再び対立したりと、表面的には裏切りを繰り返しますが、根底には三好家再興という信念があったと考える研究者もいます。

最期は、信長との対立の末に名器・平蜘蛛の茶釜を自ら叩き割り、居城に火を放ち自害、その死に様もただの悪人には似つかわしくない、どこか悲壮感のあるものでした。

まとめ

三悪行として知られる数々の事件は、どれも久秀の直接関与を証明する証拠に欠けています。

また、主家・三好家への忠義を示す行動や、文化人としての顔もあった彼を、単純に悪人と決めつけるのは時代錯誤かもしれません。

彼のイメージが悪人になった背景には、信長に敗れた側=敗者の歴史であること、そして江戸時代の軍記物語などで脚色されたことがあるでしょう。

戦国時代は、信念を貫くことすら裏切りとされる過酷な時代でした。

そんな中で松永久秀は、自らの美意識と忠義を持ち、激動を生き抜いた知略の人、そう考えると久秀の姿はまったく違って見えてくるのではないでしょうか。

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