1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まり、この大胆な作戦を構想した中心人物として知られるのが、連合艦隊司令長官・山本五十六です。
しかし意外にも、山本は以前からアメリカとの戦争に慎重な姿勢を示していながら、対米戦争の危険性を誰よりも理解していた人物が、真珠湾への奇襲を決断したのでしょうか?
山本五十六はアメリカを知っていたからこそ恐れていた

1884年、新潟県長岡に生まれた山本五十六は海軍兵学校へ進み、日露戦争では日本海海戦に参加、戦闘では左手の指を失う重傷を負い、戦争の過酷さを身をもって経験しています。
その後、1919年からハーバード大学に留学し、駐米武官としてアメリカに滞在、巨大な工場や豊富な石油資源、急速に発展する自動車産業などを目の当たりにします。
山本は、ひとたびアメリカが本格的な戦争体制に入れば、日本が生産力で対抗することは難しいと考えるようになりました。
そのため日独伊三国同盟にも反対し、対米戦争を避けようとします。
1940年には近衛文麿に対し、開戦すれば最初の半年から1年程度は戦えても、その先については確信を持てないという趣旨の見通しを伝えたとされています。
しかし、日米関係は悪化を続け、1941年12月、日本はついに対米英開戦を決定、戦争そのものを決定する立場ではなかった山本は、今度は連合艦隊司令長官として、どう戦うのかを考えなければならない立場に立たされたのです。
真珠湾に賭けた短期決戦
山本は日本海軍が従来想定していた、進撃してくるアメリカ艦隊を徐々に削って最後に艦隊決戦を行う「漸減邀撃作戦」にも疑問を抱いていました。
長期戦では勝てない、そして通常の戦い方でも勝算は乏しい、そこで山本が一縷の望みを託したのが、開戦直後にアメリカへ想定外の大打撃を与える方法でした。
航空母艦6隻を集中投入して真珠湾を奇襲し太平洋艦隊を一気に叩く、この攻撃によってアメリカ側の戦意を低下させ、長期の総力戦になる前に外交交渉による戦争終結へ持ち込もうとしたのです。
真珠湾攻撃では多くの戦艦に損害を与えましたが、重要なアメリカ空母は真珠湾におらず、燃料備蓄や修理施設なども残りました。
さらに攻撃はアメリカの戦意をくじくどころか、結果的に世論を対日戦へ結束させる方向に作用します。
山本は残された米空母を誘い出して撃滅しようと、続いてミッドウェー作戦を推進しますが、米空母撃滅という戦略的な狙いが現場まで十分共有されず、さらにはアメリカ側には日本海軍の作戦を事前に察知され、1942年6月のミッドウェー海戦で日本は主力空母4隻を喪失、戦局は大きく変化します。
1943年4月には山本自身の視察予定もアメリカ軍に察知され、搭乗機を待ち伏せ攻撃されて59歳で戦死しました。
その生涯は「悲劇の名将」という言葉だけでは語れない複雑さを残しています。
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