太平洋戦争初期、日本海軍の「零戦」は圧倒的な運動性能を誇り、米軍パイロットから恐れられる存在でした。
しかし1942年、アラスカ沖の小さな島に不時着した1機の零戦が、戦いの流れに影響を与えることになります。
ほぼ無傷の零戦を米軍が回収「アクタン・ゼロ」とは

零戦が実戦に登場したのは1940年、軽量な機体による優れた旋回性能と長い航続距離を武器に、日中戦争から太平洋戦争初期にかけて高い戦闘力を発揮しました。
特に格闘戦では強さを見せ、米軍にとって零戦の性能を解明することは重要な課題となっていました。
大きな転機が訪れたのは1942年7月、アリューシャン列島での作戦に参加していた古賀忠義一飛曹の零戦が被弾し、アラスカ沖のアクタン島へ不時着しました。
機体は着地の際に反転し、古賀忠義一飛曹は死亡しましたが、零戦そのものは比較的良好な状態で残されます。
その後、米軍が機体を発見して回収、アメリカ本土へ運び、後に「アクタン・ゼロ」と呼ばれるこの機体は、米軍にとって貴重な研究材料となります。
零戦とは旋回戦をするな、分析によって見えてきた弱点
米軍による試験から、零戦の強さと同時に弱点も詳しく確認されていきます。
零戦は低速域での旋回性能に優れている一方、高速域では操縦性に制約があり、急降下などを利用した高速戦闘では長所を発揮しにくい特徴がありました。
さらに大きな問題だったのが防御力で、高い運動性能や長大な航続距離を実現するため、零戦は徹底した軽量化が図られていたため、その代償として初期型では操縦席を守る装甲や燃料タンクの防御が十分とはいえず、被弾した際の生存性に弱点を抱えていました。
こうした特性を踏まえ、米軍は零戦が得意とする旋回中心の格闘戦を避け、速度や高度を生かして攻撃、そのまま離脱する戦い方を重視するようになります。
つまり零戦そのものが突然弱くなったのではなく、「小回りが利くなら、小回りで勝負しない」「高速域が苦手なら、速度を生かして戦う」、零戦の強さと弱さを理解したうえで、その土俵に乗らない戦術を取ることが重要になったのです。
ただし、アクタン・ゼロ1機の回収だけで戦局が逆転したわけではありません。
米軍はそれ以前から実戦を通じて対零戦戦術を研究しており、その後は新型戦闘機の投入や大量生産、パイロット育成などでも優位性を拡大していきました。
一方の日本は熟練パイロットを次々と失い、戦争末期には零戦が特攻にも使用されるようになり、無敵と恐れられた戦闘機は、戦争の長期化とともに置かれた状況そのものが大きく変化していったのです。
無敵と恐れられた兵器であっても、研究され対策を取られれば、その優位性は永遠には続かない、アクタン・ゼロはそのことを象徴する存在だったのかもしれません。
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