戦時下の少女たちが命を削って作った『風船爆弾』最も儚い戦いの真実

戦時下の少女たちが命を削って作った『風船爆弾』最も儚い戦いの真実

太平洋戦争末期、日本は敗戦の色が濃くなる中で、アメリカ本土を攻撃する前代未聞の作戦を考案しました。

その名は「風船爆弾」、和紙とこんにゃくのりで作られた巨大な風船に爆弾を吊るし、偏西風に乗せて太平洋を横断させるという奇抜な兵器でした。

しかしその裏側では、10代の少女たちが過酷な労働に従事し、命を削ってまで決戦兵器を作っていたのです。

そして、もし計画が完全に実行されていたなら…この兵器は、さらに凶悪な存在になっていたといわれています。

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偏西風に託された決戦兵器

1944年末、日本軍はアメリカ本土を直接攻撃するための手段として、「ふ号兵器」通称「風船爆弾」の開発に踏み切りました。

直径約10メートルの和紙製気球に、15キロの爆弾1発と焼夷弾2発を搭載、水素ガスを満たし、偏西風(ジェット気流)に乗せてアメリカへ向けて放つというものでした。

千葉県一宮、福島県勿来、茨城県大津の3か所から、わずか数か月の間に約9,300発が発射されたといわれています。

そのうち約1割がアメリカ西海岸に到達、オレゴン州では風船爆弾が爆発し、ピクニック中の民間人6人が犠牲になるという痛ましい事件も起きました。

和紙製のためレーダーに映りにくく、アメリカ側は「細菌兵器ではないか」と混乱、報道を統制するほど心理的な恐怖を与えた兵器でもあったのです。

戦争が奪った少女たちの青春

風船爆弾の製造を支えたのは、15歳前後の女学生たちでした。

福岡県北九州市にあった「小倉陸軍造兵廠」などでは、全国から少女が動員され、巨大な気球づくりに従事しました。

製造方法は極めて手作業的で、何枚もの和紙をこんにゃくから作ったのりで貼り合わせ、素手で何時間もこすり合わせるという重労働でした。

当時15歳で動員された女性は、「裸足で12時間立ちっぱなし、のりで手はただれ、ひどい人は骨が見えた」と証言しています。

草履では滑るため、真冬でも裸足で作業、膿がたまり、足を切っても次の日には工場へ行かねばならなかったといいます。

賃金は月40~50円(現代の時給100円程度)で、直接支給されず学校経由でまとめて払われるため、給料をもらった記憶がないと語る人も多くいました。

当時の法律で未成年の長時間労働は禁止されていましたが、戦時特例で緩和、明治大学の山田教授は「問題が起きたとき、ルールのほうを変えてしまう、この構造は現代にも通じる」と指摘します。

明治大学登戸研究所資料館では、当時の和紙や資料を展示し、「戦争が市民の生活をどう変えたのか」を問いかけています。

彼女たちは、国のためと信じ青春のすべてを工場に捧げていたのです。

もしも計画が実行されていたら細菌兵器化の恐怖

明治大学登戸研究所資料館の山田朗館長によれば、風船爆弾は実は苦し紛れの兵器ではなかったといいます。

初期の設計段階では、ペスト菌を持つノミを搭載して米本土にばらまく、細菌兵器計画が存在したのです。

研究には、悪名高い731部隊が関与していたとされ、もし実行されていれば、人類史上初の大規模生物兵器攻撃になっていた可能性もありました。

しかし、飛行高度1万メートルでは氷点下50℃に達し、ノミが生存できないと判明したため計画は中止、代わりに検討されたのが牛疫ウイルスを用いた家畜攻撃でした。

日本の畜産業を混乱させる実験は成功していたものの、最終的には報復を恐れて実戦投入は見送られたのです。

つまり、もしこの計画が実現していれば、風船爆弾は和紙の兵器ではなく、史上初の生物兵器として語られていた可能性もあったのです。

まとめ

風船爆弾は、和紙とこんにゃくのりで作られた異様な兵器であり、日本の科学と絶望が生み出した象徴的な存在でした。

その裏には、若い少女たちが命を削って働いた事実と、もし計画が進んでいれば生物兵器となっていた可能性が隠されています。

戦争は常に、人の尊厳や青春を犠牲にして成り立つものです。

彼女たちが残した言葉や記録は、平和の尊さを今に伝える貴重な遺産です。二度と同じ過ちを繰り返さないために、私たちはその歴史を語り継がなければなりません。

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