東京・大手町、日本屈指のビジネス街のど真ん中に、ぽっかりと空白のように残る一画に「将門塚」があります。
再開発が進み、1㎡あたりの地価が天井知らずに高騰するこの場所で、なぜ将門塚だけが今も残されているのでしょうか。
「祟りが怖いから」「絶対に動かせない怨霊の墓だから」といった噂は有名ですが、その実態はオカルトだけでは語れません。
平将門とは何者?
平将門は、平安時代中期に関東で勢力を伸ばした武将で、中央政府に反旗を翻し、新皇(しんのう)を名乗ったことで、歴史書では朝敵として描かれています。
しかし、その評価は大きく異なり、当時の地方社会では、中央から派遣された国司による重税や不正が横行している中、将門はそうした圧政に反発し在地の豪族や農民の支持を集めた人物です。
結果として、独立国家を作ろうとした革命家のように語られることもありますが、実態は関東の秩序を自らの手で守ろうとした武装指導者に近い存在だったと考えられています。
天慶3年(940年)、将門は藤原秀郷・平貞盛らの討伐軍によって敗死します。
その首が京都で晒された後、「故郷を想い、空を飛んで関東へ戻った」という伝承が生まれました。
史実ではありませんが、御霊信仰が色濃く残る日本において、この物語は将門を恐るべき存在へと変えていきます。
将門塚と祟りの正体
現在の将門塚は、千代田区大手町に位置しています。
伝承では、将門の首が落ちた場所に塚が築かれたとされ、鎮魂の対象となりました。
よく語られるのが、関東大震災後の祟り騒動です。
1923年の震災で周辺は焼け野原となり、旧大蔵省(現・財務省)が将門塚周辺に仮庁舎を建設、その後、職員の病死や不幸、落雷による火災などが続き、将門の祟りではないか?という噂が広まります。
ただし、ここで注意すべき点は、事故や病死が起きたこと自体は記録に残っている、しかしそれを祟りと公式に認めた事実はない、人数や内容は後世に誇張されて伝えられている、つまり出来事は事実でも、因果関係は証明されていません。
戦後のGHQによる駐車場整備計画についても同様です。
工事中に重機事故が発生し、結果的に開発が回避されたことは事実とされていますが、「GHQが祟りを恐れて撤退した」と断定できる公的記録はありません。
とはいえ、日本の信仰や世論を無視して摩擦を生むより、計画を見直す判断がなされた可能性は十分に考えられます。
将門塚はなぜ守られているのか
将門塚が残り続けている最大の理由は、怖いから触らない?ではありません。
江戸時代以降、将門は次第に怨霊ではなく鎮護の存在として再解釈されており、その象徴が「神田明神」、将門はここで御祭神として祀られ、関東の守り神的な存在となります。
現代の都市計画においても、将門塚は単なるオカルトスポットではなく、「長い信仰の歴史を持つ史跡」「地域感情と深く結びついた場所」として扱われています。
実際、再開発で将門塚だけが計画区域から外されるのは、信仰への配慮とリスク管理の観点から極めて合理的な判断で、結果として将門塚は、「動かせない呪いの墓」ではなく、都市と共存する歴史遺産として保存され続けているのです。
まとめ
将門塚が撤去されない理由は、恐怖の象徴としてではなく、関東の歴史と人々の感情を映し続ける存在、それこそが将門塚の本質でしょう。
大手町のビル群に囲まれながら静かに佇むその姿は、1000年以上続く日本人の祀る文化を、今も無言で語り続けています。
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