1945年(昭和20年)9月27日、向かい合ったのは、敗戦国・日本の昭和天皇と、占領軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー、このとき昭和天皇は44歳、マッカーサーは65歳でした。
戦争が終わってわずか43日、天皇は戦争責任を問われるのか?戦犯として裁かれるのか?日本の未来すら見通せない緊迫した状況で実現した二人の初会見、この席で昭和天皇が語ったとされる言葉は、後にマッカーサー自身が回想録に記すほど強烈な印象を残すことになります。
昭和天皇とマッカーサーの歴史的会談
1945年8月15日、日本はポツダム宣言受諾を国民に知らせ、長い戦争に終止符を打ちました。
連合国側では日本の戦争指導者に対する責任追及が進み、昭和天皇をどう扱うのかも大きな問題になっていました。
実際、天皇の戦争責任を問う声は連合国側にも存在しましたが、占領政策を円滑に進めるには、国民に大きな影響力を持つ天皇の存在を利用する方が現実的だという判断もありました。
つまり、この時点の天皇の立場を「マッカーサーが処刑すると決めていた」と単純化するのは正確ではありません。
しかし、昭和天皇の戦争責任が極めて重大な政治問題だったことは間違いありません。
そんな状況下の9月27日、昭和天皇はマッカーサーとの初会見に臨みます。
あまりにも有名な「一枚の写真」

正装し直立する昭和天皇、その隣にはノーネクタイで腰に手を当てるように立つ長身のマッカーサー、二人の身長差と服装、そして立ち姿の違いはあまりにも鮮烈です。
敗戦を文字ではなく、一枚の写真で突きつけられた、当時の日本人が受けた衝撃は、現代の私たちには想像しにくいものだったでしょう。
会談が始まると、昭和天皇は毅然とした態度でこう語りました。
「戦敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にあります。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構いませんが、どうか国民の生活が困らないようにしていただきたい。あなた方連合国の裁定に委ねる覚悟でここに参りました。」
この言葉にマッカーサーは、敗戦国の最高指導者が「これほどの責任を自ら進んで負おうとする姿勢は、世界の歴史でも前例がない」と述べています。
マッカーサーは後年の回想録で、昭和天皇が自分の身の安全を求めてくるのではないかと考えていた趣旨を記しています。
本当に35分間で天皇の運命が変わったのか?
重要なのは、マッカーサーがこの会談だけを理由に、天皇を救おうと決断した、と考えるのも単純すぎることです。
占領政策を円滑に進め、日本社会を安定させるうえで天皇の存在が利用できるという政治的・戦略的判断は、アメリカ側にすでに存在していました。
しかし、会見終了後、マッカーサーは態度を一変させ、昭和天皇を玄関まで見送るという最大限の敬意を示し、その後の昭和天皇は東京裁判で被告として起訴されず、天皇制も廃止されませんでした。
1946年にはいわゆる「人間宣言」が発表され、翌1947年施行の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と位置づけられます。
もしあの日、二人が激しく対立していたら、もしマッカーサーが昭和天皇を占領政策に協力できない存在と判断していたら、戦後日本の姿は、私たちが知っているものとは大きく違っていた可能性があります。
敗戦からわずか43日、焼け野原の東京で向き合った二人の男、占領下の日本とマッカーサー、そして昭和天皇の関係を考えるうえで極めて重要な瞬間だったということです。
一枚の写真の裏側には、教科書の数行だけでは到底伝わらない、敗戦国・日本の運命をめぐる緊張と政治判断が隠されています。
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