昭和初期の日本陸軍で、戦争の天才と呼ばれた人物が石原莞爾です。
関東軍の参謀として満州事変を計画し、政府や軍中央の方針に反して軍事行動を開始、少数の兵力で広大な満州を短期間で制圧したことで高く評価される一方、その成功は軍部の独断専行を助長し、日本を国際的な孤立へ向かわせる転機にもなりました。
石原莞爾、満州事変を成功へ導いた軍事戦略

石原莞爾が、戦争の天才と呼ばれる最大の理由は、1931年の満州事変で見せた軍事作戦にあります。
当時、石原は関東軍の作戦主任参謀を務めており、石原と板垣征四郎らは、南満州鉄道の線路が爆破された柳条湖事件を中国軍の仕業と発表し、それを口実に軍事行動を開始します。
この爆破は関東軍による謀略だったとされ、日本政府や軍中央も戦線拡大を認めていませんでしたが、にもかかわらず関東軍は奉天や長春、ハルビンなどの主要都市を次々と占領、広大な満州に対し兵力は約1万人程度、鉄道を活用した素早い兵力移動や相手の混乱を突く作戦によって優位に立ち、半年ほどで満州のほぼ全域を掌握しました。
本来なら命令違反として処分されてもおかしくありませんでしたが、軍事的成功によって国内では関東軍を支持する声が急速に拡大します。
昭和恐慌や政党政治への不満が高まっていた時代背景もあり、新聞も関東軍を英雄として報道、世論の後押しを受け、政府は軍の行動を追認する形となり、石原は戦争の天才と称されるようになったのです。
世界最終戦争論と満州事変が残した影響
石原莞爾が満州事変を起こした背景には、世界最終戦争論という独自の構想がありました。
石原は将来、日本とアメリカが世界の覇権を争う最終戦争を避けられないと考え、その戦いに備えるには資源豊富な満州を確保し、日本の国力を高める必要があると主張、さらに日本・朝鮮・中国などが協力する東アジアの経済圏を築くことを理想としていました。
1932年には満州国が建国され、石原は「五族協和」「王道楽土」という理念を掲げます。
しかし実際には関東軍の強い影響下に置かれ、国際社会からは日本の傀儡国家と見なされ、国際連盟のリットン調査団も、日本の権益には一定の理解を示しながらも、軍事行動を正当な自衛とは認めず、日本は1933年に国際連盟を脱退します。
さらに皮肉だったのは、その後の石原自身の立場です。
1937年の日中戦争では、中国との全面戦争は国力を消耗させ、将来の対ソ連・対アメリカ戦略に悪影響を与えるとして戦線拡大に反対、軍内部では拡大派が主導権を握り、石原は中央から遠ざけられます。
結果として、満州事変で生まれた「現地の判断で成果を出せば認められる」という前例は軍内部に広がり、その後の軍部暴走を止めることはできませんでした。
石原自身も、自ら作った流れを食い止められなかった人物となったのです。
石原莞爾は優れた戦略家であると同時に、自ら生み出した軍部の独走を止められなかった人物として、今もさまざまな視点から評価が分かれています。
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