2024年から新5000円札の肖像となった津田梅子、日本初の女子留学生の一人、津田塾大学の前身を作った人物と知っていても、なぜ紙幣に選ばれるほど重要な人物なのかは意外と知られていません。
彼女が生きた明治時代は、女性が高度な教育を受け、仕事を持って自立すること自体が珍しかった時代、そんな社会で津田梅子が切り開いた道は、現代の「女性も学び、働き、自分の人生を選ぶ」という当たり前につながっているのです。
帰国した津田梅子を待っていた女性だから活躍できない日本

津田梅子は1864年に江戸で生まれ、1871年、わずか6歳で岩倉使節団とともにアメリカへ渡り、日本初の女子留学生5人の中でも最年少で、約11年間にわたって現地で教育を受けます。
英語だけでなく文学や自然科学などを学び、アメリカ社会の中で成長した梅子は、1882年に帰国すると大きな壁にぶつかります。
長期間の留学で日本語が不自由になっていたことに加え、当時の日本には、高度な教育を受けた女性が能力を生かして働ける場所がほとんどなかったのです。
現在から考えれば、国費で11年間も海外留学した人材は引く手あまたに思えますが、女性は結婚して家庭を守ることが重視されていた時代、梅子のような存在はむしろ社会のほうが受け止めきれないほど先を行っていました。
その後、華族女学校で英語教師となりますが、梅子が求めていたのは、一部の上流階級の女性に教養を与えるだけの教育ではなく、女性自身が高度な知識や職業能力を身につけ、経済的にも精神的にも自立できる教育です。
1889年(明治22年)再びアメリカへ留学して生物学や教育学を学んだ梅子は、研究者として進む可能性もありましたが、最終的に選んだのは日本での女子教育でした。
1900年、安定した教師の職を辞め、「女子英学塾」を設立、現在の津田塾大学へとつながる学校です。
当初の学生はわずか10人ほど、それでも梅子は高い水準の教育を行い、女性が自分の力で生きていける人材を育てようとしました。
津田梅子が残したのは学校ではなく女性が人生を選べる未来
津田梅子の功績を「女子英学塾を作ったこと」だけで捉えると、その重要性を見落としてしまいます。
彼女が社会に投げかけたのは、女性も教育によって人生の選択肢を広げられるという考え方でした。
もちろん、現在の男女平等や女性の社会進出が津田梅子一人によって実現したわけではありません、平塚らいてうや市川房枝をはじめとする多くの女性たちの活動、そして戦後の制度改革などが積み重なって現在があります。
その中で、梅子が非常に早い時期から取り組んだのが教育で、社会制度が変わるのを待つのではなく、まず女性自身が知識と能力を身につけ、自分で人生を切り開けるようにする、そのための場所を自ら作ったことに大きな意味があります。
当時の社会から見れば、幼い頃から海外で育ち、結婚よりも教育者としての使命を選び、女性のための学校まで設立した梅子は極めて異例の存在だったでしょう。
津田梅子は1929年に64歳で亡くなりましたが、彼女が築いた教育の精神は受け継がれ、多くの女性が社会へ羽ばたいていきました。
そして2024年、津田梅子は新5000円札の肖像となり、女性の教育と社会進出に道を開き、日本の近代化に貢献した人物として、その功績が改めて象徴的に評価されたのです。
現在、女性が大学で学び専門職に就き、海外へ留学する光景が当たり前になった日本、その当たり前につながる種を明治時代に蒔いた一人だったからこそ、津田梅子は現代の5000円札の顔として選ばれたのでしょう。
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