鹿鳴館の華『大山捨松』日本初の女性留学生…看護婦教育と女子教育に捧げた激動の生涯

鹿鳴館の華『大山捨松』日本初の女性留学生…看護婦教育と女子教育に捧げた激動の生涯

わずか11歳で単身アメリカへ、そして帰国後“鹿鳴館の華として社交界の中心に立ちながら、日本初の看護婦学校の設立に尽力…今回ご紹介するのは、まさにドラマを超える人生を歩んだ女性「大山捨松」知れば知るほど、こんな女性が明治にいたの!?と驚くこと間違いなしですよ。

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大山捨松(山川咲子)少女の壮絶なスタート

大山捨松
Via|Wikipedia「大山捨松」公式より引用

大山捨松(おおやますてまつ)は1860年、会津藩士の家に生まれました、本名は山川咲子です。

しかし、彼女の人生は幼い頃から過酷そのもの、8歳で戊辰戦争に巻き込まれ、会津戦争では実際に負傷するなど、戦場の現実を体験しています。

その後は家族と離れ、外国人家庭や宣教師のもとで生活するという異例の環境に置かれました。

ここで自然と西洋文化に触れたことが、後の人生を大きく変えていきます。

11歳でアメリカ留学…名前に込められた母の覚悟

明治政府が女子留学生を募集した際、大山捨松はわずか11歳で選抜され渡米します。

このとき母は「今生で二度と会えるとは思わない。けれども「捨てた」つもりでお前の帰りを「松」と言い」、彼女に捨松という名前を授けました。

共に渡米したのは、後に日本の女子教育を変える存在となる津田梅子や、日本初の女性ピアニストとされる瓜生繁子、3人はトリオとして深い友情を育みます。

捨松はアメリカの名門ヴァッサー大学に進学し、優秀な成績で卒業、さらに現地で看護を学び、当時としては非常に珍しい看護婦資格まで取得しました。

帰国後の現実…最先端女性が直面した壁

しかし帰国した彼女を待っていたのは、理想とはほど遠い現実、期待していた仕事は得られず、日本語も不自由、そして行き遅れと見られる風潮、いわば時代が彼女に追いついていなかったのです。

そんな中、彼女の運命を変えたのが陸軍軍人・大山巌との出会いでした。

会津と薩摩という因縁を超え、2人は結婚、そしてこの結婚が、彼女を歴史の表舞台へと押し上げます。

結婚後、捨松は外交の場である鹿鳴館で注目を集めます。

当時の日本人が西洋文化に不慣れな中、流暢な語学、美しい所作、完璧なダンス、すべてを兼ね備えた彼女は、外国人からも高く評価され、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになりました。

まさに日本女性のイメージを塗り替えた存在だったのです。

日本初の看護婦学校を設立した行動力

捨松は、病院を視察した際、日本にはまだ看護婦制度がほぼ存在しないことに衝撃を受けます。

そこで彼女は、医師の高木兼寛に提言し、自ら資金集めるため鹿鳴館で慈善バザーを開催、なんと短期間で大規模な資金を集めました。

その結果、日本初の看護婦養成機関が誕生、現在の看護教育の原点ともいえる大きな一歩を築いたのです。

捨松はその後も、赤十字活動や慈善事業に積極的に関わり、日本の福祉を支え続けました。

さらに親友・津田梅子の女子英学塾(現在の津田塾大学)設立も支援、まさに女性の社会進出を体現した先駆者でした。

晩年は流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)により58歳で死去、その生涯は決して長くはありませんでしたが、濃密すぎる人生でした。

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まとめ

大山捨松の人生を一言で言うなら、早すぎた天才女性、留学、結婚、外交、教育、医療、すべてにおいて時代の最前線を走り続けました。

今でこそ当たり前となった看護師や女子教育の礎を築いた彼女の存在は、まさに伝説級の女性ですね。

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