1945年2月、日本本土から約1,200キロ離れた小さな火山島「硫黄島」に、巨大な米軍艦隊が迫っていました。
守る日本軍は約2万1,000人、一方で硫黄島攻略作戦に投入された米軍は、海軍要員などを含めれば約25万人規模に達したとされています。
戦力差は絶望的、ところが米軍が短期間で終わると考えていた戦いは、36日間に及ぶ凄惨な死闘へと変わります。
その中心にいた人物こそ、日本軍守備隊を率いた栗林忠道中将でした。
硫黄島の戦い、栗林忠道が仕掛けた戦略

硫黄島は面積わずか約20平方キロの小さな島ですが、その位置には大きな意味がありました。
硫黄島を占領すれば、日本側の航空拠点を排除できるだけでなく、米軍戦闘機の基地や損傷したB-29の緊急着陸地点として利用できます。
つまり硫黄島は、日本本土へ迫る米軍にとって重要な足場だったのです。
1945年2月19日、ついに米海兵隊が上陸を開始、米軍側の記録では上陸作戦の中心となった海兵隊は約7万人規模、さらに艦艇や海軍関係者などを合わせれば、硫黄島作戦に関与した米軍全体は約25万人に及んだとされています。
対する日本軍は約2万1,000人、数字だけ見れば勝敗はすでに決まっているように見えました。
栗林忠道は、海岸に兵力を集中させれば、上陸前の艦砲射撃と空爆で壊滅する、そこで重視したのが、島そのものを巨大な要塞に変えることでした。
日本軍は自然洞窟を利用しながら地下陣地を構築、トンネルで陣地を結び、砲台や機関銃陣地を地下や岩陰に隠しました。
米軍は上陸前、猛烈な艦砲射撃と空爆を加え、「これだけ撃てば守備隊は壊滅しているだろう」そう考えて上陸した米兵たちを待っていたのは、想像とはまったく違う戦場でした。
星条旗が立っても、戦いは終わらなかった
2月19日、米海兵隊が黒い火山灰の海岸へ殺到、ところが硫黄島の砂は足を取られやすく、重い装備を背負った兵士たちは思うように前進できません。
日本軍はすぐには大規模な射撃を始めず、米兵が海岸に集まり車両や物資まで上陸してくるのを待ってから一斉射撃、地下陣地や洞窟、巧妙に隠された砲座から砲弾と機関銃弾が降り注ぎました。
米軍は一つ一つ洞窟や地下陣地を潰していかなければならず、戦闘は至近距離での消耗戦へ変わっていきます。
2月23日、米海兵隊は硫黄島南部の摺鉢山を攻略、山頂に星条旗が掲げられました。
ジョー・ローゼンタールが撮影した硫黄島の星条旗は、第二次世界大戦を象徴する写真の一つとなります。
しかし、摺鉢山が陥落しても硫黄島の戦いは終わっておらず、むしろ本当の地獄はここからでした。
栗林率いる日本軍の主力は島の北部に残っており、地下陣地を利用して抵抗を続け、圧倒的な火力を持ちながら米軍は、わずかな距離を進むために多くの犠牲を払いました。
米軍の死傷者は約2万6000人に達し、そのうち約6800人が死亡したとされています。
日本軍側はさらに凄惨で、約2万人の守備隊の大半が戦死、厚生労働省も硫黄島での日本軍戦没者を約2万人としています。
生還できた兵士はごくわずかでした。
栗林自身も最後まで戦い、遺体は現在に至るまで確認されていません。
圧倒的な兵力、航空機、戦艦、戦車、火砲を投入した米軍、それでもわずか約20平方キロの島を完全に制圧するために1カ月以上を要したのです。
栗林忠道が目指したのは、単純な勝利とは違うもので、できるだけ長期間米軍を硫黄島に足止めし大きな損害を与える、そのため従来型の水際撃滅や無謀な突撃よりも、地下陣地を利用した持久戦を徹底したのです。
最終的に硫黄島は米軍によって占領され、日本軍守備隊はほぼ壊滅しました。
戦術的な抵抗がどれほど激しくても、その代償として約2万人もの命が失われた事実は変わりません。
80年以上が過ぎた現在も、硫黄島では収容されていない戦没者の遺骨が残されています。
帰ることのできなかった無数の兵士たちと、戦争というものの恐ろしい現実なのです。
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