【実話】戦争の中で生まれた友情『板東俘虜収容所』の真実に世界が驚いた

板東俘虜収容所

戦争と聞くと、多くの人が敵か味方かという冷酷な世界を想像するのではないでしょうか?

しかし、日本にはその常識を覆す歴史が存在します。

第一次世界大戦中、徳島県に作られた捕虜収容所では、敵国だったドイツ兵と日本人の間に友情が生まれた実話があります。

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板東収容所の誕生

1914年、第一次世界大戦が勃発、日英同盟を結んでいた日本はドイツに宣戦布告し、中国・青島でドイツ軍を降伏させました。

その結果、日本は約4600人のドイツ兵捕虜を受け入れることになりますが、当時の日本には大量の捕虜を扱う制度が整っていませんでした。

寺や公民館などに分散収容される状況が続く中、1917年、徳島県鳴門市に新設されたのが「板東俘虜収容所」です。

この収容所を語る上で欠かせない人物が、所長の松江豊寿(まつえ とよひさ)、松江は会津出身で戊辰戦争の敗者側の生まれで、幼い頃から敗れた者の痛みを知っていた人物です。

彼は部下にこう語ったと伝えられています。

「武士の情けをもって俘虜を扱え」

捕虜を犯罪者ではなく、祖国のために戦った兵士として尊重する、この思想が板東収容所を世界でも類を見ない場所へと変えていきました。

捕虜収容所なのに文化が花開いた理由

板東俘虜収容所は、従来の捕虜施設とはまったく異なる空間でした。

捕虜たちは比較的自由な生活を認められ、文化活動や技術交流が盛んに行われます。

収容所内にはパン工場や農場が作られ、ドイツ式のパンやソーセージ、トマトやビートなど西洋野菜の栽培など、日本の農業に影響を与えたと言われています。

さらには酪農技術の導入により、牛乳生産量が大幅に向上したという記録も残っています。

音楽活動も活発で、演劇やオーケストラが日常の風景になっていき、町の人々は捕虜たちを敵ではなく、ドイツさんと呼び交流が自然に生まれていきます。

そして1918年、歴史的な出来事が起こります。

捕虜たちによるベートーヴェン「交響曲第9番」の全曲演奏です。

女性がいないため男性のみで合唱を行うなど、工夫を重ねた演奏でしたが、これが日本における第九のルーツとされています。

現在では年末恒例となった「第九」の文化が、戦時下の収容所から生まれたという事実は、あまり知られていません。

その後も続いた日独の絆

1918年、ドイツ敗戦の報が届くと、収容所は悲しみに包まれました。

祖国の未来を案じる捕虜たちの空気は一変し、活気は次第に失われていきます。

そんな中でも松江所長は捕虜を励まし続け、1919年、正式に講和が成立すると彼は捕虜たちにこう告げます。

「諸君はもはや捕虜ではない。自由人である」1919年12月、ドイツ兵たちは祖国へ帰還、町の人々は総出で見送り涙の別れとなりました。

帰国前、捕虜たちは感謝の証として石橋を築き、これは現在も「ドイツ橋」として残っています。

その後も交流は途絶えず、ドイツでは「バンドウを偲ぶ会」が開かれ、元捕虜たちは何十年経っても板東での記憶を語り続けました。

中には「世界中どこにもバンドウのような収容所はなかった」と語る証言も残っています。

1972年には鳴門市ドイツ館が開館し、今も当時の資料や手紙が展示されています。

バウムクーヘンやソーセージ、そして第九の文化、板東収容所が残した影響は、現在の日本にも確かに息づいているのです。

まとめ

板東俘虜収容所は、戦争の歴史の中に生まれたもう一つの物語です。

徳島に残るこの歴史は、争いの時代にこそ思い出したい人間の尊厳を静かに語り続けています。

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