大西瀧治郎「特攻の父」は本当にすべての元凶だったのか…背負わされた責任と終戦翌日の壮絶な最期

大西瀧治郎「特攻の父」は本当にすべての元凶だったのか…背負わされた責任と終戦翌日の壮絶な最期

太平洋戦争末期、日本軍が組織的に行った特別攻撃、いわゆる「特攻」、その象徴的な人物として知られるのが、海軍中将・大西瀧治郎です。

特攻の生みの親と呼ばれ、多くの若者を死地へ送り出した指揮官として語られてきましたが、近年は大西一人に特攻の責任を負わせる見方に疑問を呈する研究や証言も増えています。

大西はなぜ特攻を決断し、何を考えながら隊員たちを送り出したのか、そして敗戦翌日に自ら命を絶ったのはなぜだったのでしょうか。

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特攻の父と呼ばれた大西瀧治郎

大西瀧治郎
Wikipedia「大西瀧治郎」公式より

大西瀧治郎が組織的な航空特攻を本格的に実施したのは、1944年10月に第一航空艦隊司令長官としてフィリピンへ赴任してからでした。

当時の日本海軍は、ミッドウェー海戦やマリアナ沖海戦などで熟練搭乗員を大量に失い、米軍との航空戦力の差は決定的なものとなっていました。

そうした状況下で大西が認めたのが、航空機ごと敵艦へ突入する特攻でした。

ただし、特攻そのものを大西一人が考案したわけではなく、大西がフィリピンへ赴任する以前から、海軍中央では軍令部の中澤佑や黒島亀人らが中心となり、人間魚雷「回天」や人間爆弾「桜花」などの特攻兵器開発を進めていました。

つまり大西瀧治郎は、特攻をゼロから生み出した人物というより、すでに海軍内部で進み始めていた特攻という流れを、実際の航空作戦として組織的に実行した責任者だったと見る方が実態に近いのです。

特攻は戦争を終わらせるためだったのか?

大西瀧治郎
Wikipedia「大西に敬礼する神風特攻隊「敷島隊」」公式より

大西自身も、特攻を通常の戦法として肯定していたわけではなく、特攻を「統率の外道」と表現したとも伝えられており、本来であれば指揮官が選ぶべきではない方法だと認識していました。

それでも大西が特攻を選んだ背景には、日本がすでに通常の方法では米軍に対抗できないという現実、後年の証言によると「大西は特攻によってアメリカに勝てるとは考えておらず、フィリピンで米軍に大きな損害を与え、その段階で天皇の決断によって戦争を終結させ、講和へ持ち込む」ことを狙っていたとされています。

本土決戦になれば、日本軍だけでなく民間人まで巻き込まれ、日本そのものが壊滅しかねない、だからこそフィリピンを最後の戦場とし、そのための最後の手段として特攻を使うという考えだったと言います。

少なくとも大西が単純な精神論だけで若者に死を命じた人物ではなかったことは、数多くの証言からうかがえます。

元副官の門司親徳は後に、大西について「一回一回、自分も死にながら特攻隊を送り出していたのだと思う」と振り返っています。

敗戦翌日、自ら選んだ最期

大西の決断によって多くの若者が帰らぬ人となった事実は変わりません。

そして8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を発表、翌16日未明、大西は東京の官舎で割腹自決しました。

介錯を受けず、長時間苦しみながら死んだとされ、その背景には自らが特攻へ送り出した隊員たちへの贖罪意識があったと考えられています。

遺書では自らの責任について触れる一方、若い世代に軽率な行動を慎み、日本の再建と世界平和のために尽くすよう訴えています。

だからといって、多くの若者を死地へ送り込んだ責任が消えるわけではありませんが、特攻の父という一言だけで大西を断罪すれば、その背後に存在した軍令部や海軍全体の意思決定まで見えなくなってしまいます。

大西を英雄として美化することも、すべての責任を押しつけることも、特攻の本質を見誤ることになるのかもしれません。

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